映画日記/記録

“Oh Captain, my Captain!” - 「いまを生きる」( Dead Poets Society / 1989 アメリカ / 監督:ピーター・ウィアー )

「ヒトラー 最期の12日間」 最後の日。

ドイツ映画界が真正面からヒトラーを描いた初めての作品と言われている、「ヒトラー 最期の12日間」。


ヒトラーを描いた作品の中でも今までにない、“ドイツ映画界で作られた”という点でどのような作品か非常に興味があったのと、名優ブルーノ・ガンツの演技を見たいというのが、見に行った何よりもいちばんの理由だった。


もう行く末が見えている、死の直前数日間のヒトラー。秘書ユンゲの回想をもとに描かれた映画だが、その秘書に対して見せる寛容さや、ゲッベルス夫妻の子供らを前に思わずこぼす笑顔、ドイツの運命を見据えた果てに用意された毒薬を見たもう1人の秘書が、私にも毒を、と望んだ時、手渡しながら掛けた“こんなものしかやれなくて”という言葉など、近くに居た者でなければ見ることはなかったであろう、後世の人々が思い浮かべる独裁者のイメージとはかけはなれた姿が描かれている。ドイツ内外で物議を醸し、批判の対象になったというのはおもにそういう点だろう。怪物は怪物として描くべきだ、と。


しかしそのように人間的な一面ばかりを誇張している訳ではなく、もはや壊滅状態となり機能していないドイツ軍に怒りを露わにし、“スターリンのように粛清すべきだった”と張りつめた声を荒げる鬼気迫る姿や、顔色ひとつ変えずに“役に立たない人間は生きていても仕方がない”と言う様子など、まさに独裁者そのままの姿も、同じように描かれる。秘書ユンゲの劇中の言葉がそれを表す。ふだんはお優しいのに、“総統”の時はまったく違う、恐ろしいこともおっしゃる、と。


両方の姿が淡々と描かれている映画。それがなにより批判の対象となった訳だが、独裁者とて生身の人間である以上、様々な面があって当然であり、この映画が彼の人間味ある側面を描いたからといって、ヒトラーやナチズムを讃えていることにもならなければ、独裁者の哀れをさそう姿を描いて、観客に“実はヒトラーはそれほど悪い人間ではなかったのでは”と錯覚させようとしている訳でも、もちろんない。


時に見せる寛容さや笑顔、後ろ手に組んだ指をイライラと落ち着きなく動かす小心者めいたクセを描いたからといって、なにも“彼の罪を許せ”と言っているわけではないのだ。


そのような考えがこの映画にないことは、ヒトラーの最期をまったく情緒的に描いていないことでもはっきりしている。自分の遺体は敵の手に渡らぬよう焼き払ってくれとのヒトラーの言葉通り、部下が地面に掘っておいた穴にヒトラーと妻エヴァ・ブラウンの遺体を投げ入れ、ガソリンをかけ火を放って敬礼するだけだ。遺体の顔も映さないし、爆撃によって敬礼を中断された部下達が、建物のドアに向かって走りこむだけの描写だ。そこでこの映画のヒトラーはあっさりと姿を消し、あとは敗戦に向かうドイツと人々の運命を辿ってゆく。


ヒトラーを演じたブルーノ・ガンツには、批判の対象になるとわかりきっている役柄さえ演じきりたいという執念ともいえるようなものが感じられて、ほかの作品とはまったくの別人になっている姿に戦慄した。


そしてもうひとつ印象的なのが、秘書ユンゲをはじめとする女性たちだ。もはや逃れられない敗戦と死を前にしたヒトラーと、無機質な地下要塞の中で正式な手続きをとって結婚し、死をもともにしたエヴァ・ブラウン。攻撃をかいくぐってヒトラーのもとに駆けつけたドイツ軍の女性飛行士。ヒトラーを狂信し、ナチズムの消滅した世界では子供を育てることはできないと自ら子供を手にかけ、夫とともに自害したゲッベルス夫人。ドイツの行く末を生きて目撃した女性、悲愴な覚悟でヒトラーと運命をともにした女性たちが、強烈な印象を残す。


独裁者の独裁者たる姿、“怪物ヒトラー”として彼を描き、その行為がいかに残虐であったかを伝えるべきだ、と説く人々は、ヒトラーに関してはとにかくその残虐さを糾弾しなければ、へたに人間性を認めたりしたら、まるで自分が彼を肯定していると誤解されかねない、との思いにとらわれているように見える。


しかし、余りに罪深い独裁者に心酔し、同じ方向へと向かった人々がいたのもまた事実、残虐な面を見ることだけが “なぜあれ程の殺戮が行われなければならなかったのか” を考えるたよりではないように思える。画家になりたかった1人の青年が、独裁者になっていったのだから。


かつて知人と書店にいた際、かねてからホロコーストに関するドキュメンタリーや映画を見たり、本や記事を読んでいたこともあって、ふとヒトラーについて書かれた本を手に取ったところ、その姿を見た知人から、“ヒトラーが好きなのか”と言われ、その余りに一面的で単純なものの見方(手に取る=好き、と受け取る、あまりに直接的な単純さ)に、愕然としたことがある。人の考え方をあっさりと決めつけたような、唐突に投げつけられたこの言葉の爆弾は思いもよらぬ威力で、その結果ものすごい脱力感に襲われ、もはや言葉もなかった(こういう“爆弾”が投げつけられることというのは、往々にしてあるものだが)。


この映画「ヒトラー 最期の12日間」を取り上げたあるテレビ番組で、映画の紹介と説明のあと、“決してヒトラーを礼賛している映画ではありません” という言葉が最後に付け加えられた。果たしてそういう言葉が必要だろうか、とそれを見た時には思ったが、ヒトラーについて書かれた本をただ単に手に取ったというだけで、“ヒトラーが好きなのか” と、全く違った意味に受け取られることもあるのが現実。やはりそういう言葉を “わざわざ” 付け加えなければしかたがない、ということか。


誤解や曲解、そして批判を招いたというこの映画が映しだされるスクリーンを見つめながら、この映画に描かれていること、歴史の中で起こったこと、まだ自分が知らずにいるであろうこと、波紋のように広がるもの、戦争、人間、様々なものについて考えた。こうまでして独裁者を描いたことにも意味がある。 



そして、時に映画ファンとしての目は、主演ブルーノ・ガンツを見ながら彼のほかの作品での姿を思い浮かべ、ヒトラーの妻エヴァ・ブラウンが三面鏡の前に座るシーンで「大人は判ってくれない」を思い出していた。様々なことに思い巡らせていると、とりとめもなく、時々脱線して、いろんなことを考えている。







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