「V フォー・ヴェンデッタ」 復讐か、テロか。

V FOR VENDETTA
2006アメリカ
監督:ジェームズ・マクティーグ
出演:ナタリー・ポートマン ヒューゴ・ウィービング 
    ジョン・ハート



抑圧された人々や革命を描いた映画は数多くある。


抑圧から逃れようとする人々の映画は、観客の頭の中にその映像を刻みつけ、何度も反芻させ、必ず様々なことを考えさせ、思い出させる。


この「V フォー・ヴェンデッタ」は、独裁国家を舞台とし、すべてを牛耳る議長の名が“アダム・サトラー”("サ"トラー、とは)、その議長が十字をふたつ重ねたようなシンボルマークの旗のもと軍を従えて演説し、情報操作、不当逮捕、果ては強制収容所に人体実験とくれば、原作を読んだことはないが、それでもナチスをモデルに描かれていることは誰が見ても明らかだ。


なおかつ、“許される報復か、それともテロか”“血を流す制裁は正義か”といったテーマを考えさせる一方で、仮面の男Vの復讐シーンなどがかなりエンターテインメント性を意識してつくられているのは、原作がコミック、そして脚本が「マトリックス」のウォシャウスキー兄弟であるという点が大きいだろう。


16世紀に反逆罪で処刑された実在した男の顔をかたどった仮面で自らの顔を覆い、国家からテロリストと呼ばれる男“V”。神出鬼没、突飛なやり方で警察をけむに巻き、行く手を阻む者にいとも簡単に制裁を加える姿は、派手な演出も手伝って、独裁国家に突然変異的に生まれた『民衆の深層心理を体現する存在』であると最初のうちは見てとれる。


しかしストーリーが進むうち、必ずしも“独裁国家打倒”を掲げた正義のヒーローというのではなく、過酷な抑圧をのがれ、その抑圧の加害者である者たちへの復讐の思いだけを糧に生き、立ち向かう孤独な男であるという背景が徐々に描かれてゆき、それが観客をVに引き寄せ、観客とVを密接にする。


はじめから高い理想や理念だけで起こした行動ではなく、『Vというただ1人の男の復讐から始まった革命である』、『復讐から革命にまで高められた』というふうに描くことによって、架空の世界の設定であるにも関わらず、実話をもとに作られた映画を見た時のように、現実に存在する暴力や抑圧と対峙する時、一体どうすべきかと、この映画を見る観客に、自分自身に引き寄せて考えさせることに成功している。


そしてVの仮面。前半では、Vの正体を消し、痕跡を消し、記号化するためのものと思わせながら、Vの復讐が遂げられてゆくうちに、『この仮面は抑圧を受けるすべての人の顔であり、抑圧を受けるすべての人がVである』ということが描かれる。


V フォー・ヴェンデッタ」は、これらいくつかの要素が描き込まれているがために、脚本・製作者や出演者の名前・派手な映像で話題になるだけにとどまらず、“単なるアクション映画”に落ち着いてしまうことなく、観客に何かを残し、また投げかける映画にまでなっている。


劇中で一切顔を出さずに仮面の男Vを演じたヒューゴ・ウィービングが素晴しい。
その角度や、光と影によってまるで表情を変えているかのごとく映る仮面に加え、深みのある声による演技で、Vに輪郭を与えた(当初は別の人がVを演じていたのが降板して H・ウィービングがVを演じることになったものの、顔が映らないので 最初の人が演じた映像も使われているらしい。)


過激なストーリーの中で、ほほえましいのはVが “この映画がとても好きだ”と言って、古いモノクロ映画の「岩窟王」を見るシーン。主人公モンテ・クリスト伯による、まさに“復讐劇”だ。Vは甲冑相手にモンテ・クリスト伯のように剣術の鍛錬までする。Vがエプロンをして朝食を作るシーンは、「ハンニバル」でレクター博士がエプロンをしていたシーンに匹敵するくらい、ちょっと面白かった。


細かいところにケチをつけるなら、ナタリー・ポートマン演じるイヴィーが独房にとらわれていたのは、イヴィーの怒りの感情を目覚めさせるためにVがやったことだった、というのは少々強引かつ不自然な展開だ。ただ、独房の中で手にした、イヴィーに決意を固めさせるきっかけとなった手紙が、かつてVに同じ思いを味わわせたものだった、というところが非常に美しかった。手紙の主の最後の言葉を読んでイヴィーは涙を流し、その言葉を独房での支えとしていたが、Vもまた、同じ言葉にひととき孤独を癒され、やがて巨大な敵に立ち向かう道を選んだのだというストーリーをおのずと観客に連想させるがゆえにだ。


かつてのアメリカの戦争映画やアクション映画は、“平和をおびやかす敵に、常に正しいアメリカが裁きを下す”、アメリカ万歳、というものが主流を占めた。


テロリストから身を守るために攻撃するとは言うけれど、ではなぜテロが起きるのか。“突然のテロ行為”だと思っていても、テロリストにとってその行為は“テロ”ではなく“報復”なら、ではなぜ報復されるのか。そんな行為に走らせた理由は何だったのか。


テロが“正しい”、“起きても仕方がない”と言っているのではない。ただ、多くのものが同じ方向に流れていても、反動や逆流は起こるものだ。


映画は時代を反映する。すべてのアメリカ映画がアメリカ万歳じゃ気持ちがわるくてしかたがない。そういうアメリカ映画への反動のような「V フォー・ヴェンデッタ」、こういう映画もつくられる方が、いっそ健康的だろう。







06.4.24