「髪結いの亭主」 愛は消えず、喪失と虚無が訪れる。

Le Mari de la coiffeuse
1990 フランス
監督:パトリス・ルコント
出演:ジャン・ロシュフォール
    アンナ・ガリエナ



デジタルリマスター版を見た。


“頭の中は思い出だらけだ”。主人公が言う。ひとつの行為、出来事に、思い出が重なる。
妻との些細なケンカのあと、煙草を吸いながら重なる、子供の頃。親のいぬ間に、兄とともにこっそり酒を飲み煙草を吸い、窓にさす車のライトで親が帰ってきたと悟り、慌てて煙をかき消す。ちょうど、「大人は判ってくれない」の主人公のように(そういえば、主人公の名前も同じアントワーヌだ)。 理髪師であるマチルドに求婚し承諾をもらった時は、かつて女性理髪師に憧れ続けた子供時代の自分が重なり、アクシデントで偶然ふたりの店に駆け込んできただけの来訪者に、マチルドがお代はいらないと言うと、10年前の結婚式での同じような出来事を思い出して、ウェディングドレス姿のマチルドが重なる。


生活感はなく、ひたすら愛と思い出だけが語られる。つまり、それこそが彼のすべてなのだ(考えてみれば、食事のシーンすらない。店の二階に続く階段がちらっと映るシーンがあるが、そこに置かれたこまごまとした物が、かろうじて生活感をかもし出しているくらいだ)。


マチルドとの結婚生活の中で様々なことを思い出すが、マチルドとの結婚生活自体が、現在ではなく、すでに思い出だ。少年時代は、現在のアントワーヌが思い出しているものであり、マチルドが生きていた頃のアントワーヌが思い出しているものでもある。


幸せな瞬間に、ふと、夏の終わりの秋の気配のように混ざり込む、ぼんやりした不安。ふだんはただ静かに美しい微笑をたたえているマチルドが、そんな不安に駆られる。 “離さないで”、“愛しているのはあなただけ”、“ふたりが離れるのは死ぬ時”。その言葉は、まるで助けを求めているかのようだ。


後半になるにつれ、不安の色合いは濃くなる。妻が出ていってしまったというゴラ夫婦について、アントワーヌがきっと戻ると言うと、マチルドは “いいえ、戻らないわ”。老人ホームに入ったイジドールは死のイメージを想起させ、常連客も死の話をし、その客の背中が曲がったと言うマチルドは、老いや死を考えていただろう。そして、マチルドは言う。“人生っていやね”。


思えば、店の天井に入ったヒビに気づくシーンが、非常に象徴的なのだ。ふたりの世界であるこの店に入ったヒビ。


煙草と酒で夜更かしした翌日、店の床に横たわるふたりを、子供の頃のアントワーヌがガラス戸の向こうから覗きこんでいるイメージは、かつて子供時代のアントワーヌが、理髪師シェフェール夫人の遺体を、ガラス越しに見つけたその時と重なる。まさしく死の暗示だ。


天井から店の中を見おろすような視点でアントワーヌの姿をとらえながら終わるこの映画。それは、ヒビの向こうからの視点なのか。妻を思い出している、現在のアントワーヌの視点か。それとも、アントワーヌを愛し続けるマチルドの視点か。


美しく愛に満ちたシーンの中に、マチルドの思う不安、マチルド及びふたりの愛の末路が、暗示的に散りばめられている。非常に優れた脚本だ。


すべては、マチルドを失ったあとのアントワーヌの語りだ。忘れることも、消すことも、手放すこともできない。







2011.10.1/10.4