「愛に関する短いフィルム」Krótki film o miłości (1988)

ポーランドのクシシュトフ・キェシロフスキ監督(1941-1996)の作品に、〈デカローグ〉というテレビシリーズがある。十戒をモチーフとした十話からなる作品で、そのうちの二話、「愛に関する短いフィルム」 「殺人に関する短いフィルム」 は、テレビシリーズとは別に、長編映画として再構成されている。

 

かつて、このテレビシリーズ〈デカローグ〉の全話が、深夜、関西ローカルの地上波で、何週かに分けて放映されたことがあった。さすがに全話は見られず見逃した回もあるが、その時、上に書いた二話は偶然にも見、のちに、同監督の特集上映の際、映画版も見た(テレビシリーズ・映画版ともに、見たのは監督の没後)。

 

見たのはもうずいぶん前のことであるが、しかし、印象深いのは、「愛に関する短いフィルム」のラストだ。テレビシリーズと映画版とでは、ラストを変えてある。

 

集合住宅に住む青年が、向かいの棟に住む年上の女性に、思いを寄せている。毎日、窓から望遠鏡でその様子を見ている。のちにふたりは、見る/見られる だけの関係性を越え、実際に顔を合わせることとなるが、女性のほうは、青年の気持ちを知ってもそっけない。そのうち女性は、自分が見られていたことを知る。思いを実らせることのできなかった青年は、手首を切って自殺を図る。そのことにうろたえる女性。一命を取り留めた青年に、後日、女性が会いに行くと、「もう愛していない」、と言われ、それを聞いて言葉を失った女性の顔で、作品は幕を閉じる。

 

もう何年も見る機会がないが、だいたい、このような流れであったと思う。上に書いたラストシーンは、テレビシリーズのものである(はず)。映画版のラストでは、自殺を図り、病院に担ぎ込まれ意識がまだ戻らない青年のもとに、女性が駆けつけ、それほどまでに自分に思いを寄せていたこの青年の枕元で涙を流す、というものであった(はず)。

 

テレビ版を初めて見た時には、青年の心変わりが、至極唐突なものに思えて、劇中の女性の心情と同じく、まるで取り残されるような感覚を味わうラストシーンだと思えた。映画版も見、両方のラストを知ってからは、いったいどちらが、監督自身の考えに、より基づいたものだったのか、とか、近いものだったのか、などということが、その当時は気になった。

 

しかし、その後、別の見方をするようになった。別の見方になったのは、ある意味自然な流れといえるであろう映画版のラストではなく、おもに、テレビ版のラストに関してである。

 

青年が、ずいぶんと唐突な心変わりをしたように見えるのはなぜか? つまりそれは、この女性の視点から見ているからだ。青年に対してそっけなくしていたこの女性は、青年の心の動きにまでは気づかない。しかし、この青年の側から見てみるとどうか。どれほど思いを寄せようとも、受け入れられることはない。その苦しみに耐えられない。その苦しみから逃れる場所がない。逃れる場所がなくて、すべてを捨てようと決心したその時、心のうちを占めていたものは、どうしようもない絶望ではなかったか。他人から見れば、たかが色恋でそこまで、と思うのかもしれない。しかしそういうものは、その気持ちに陥っている当人にとっては、寝ても覚めても頭を離れないほどに、とらえられて、逃れられないものであろう。

 

つまり、一命を取り留めた青年に、女性が会った時には、もはや、青年の心は、その絶望を味わい尽くしたあとだ。苦しみ抜いたあとだ。すべてを投げうったあとだ。恋い焦がれる気持ちが、絶望に覆い尽くされたあとだ。そして、「もう愛していない」、という台詞。絶望し尽くしたあとの本心なのかもしれない。しかし、本当はまだ気持ちが残っているのに、この女性を前にしたら、もうそれしか言えなかったのかもしれない。

 

ところが、青年の心の動きについぞ気づくことのなかったこの女性は、“唐突な心変わり” だと感じて戸惑う。本当は、唐突ではなかったかもしれないのに。その言葉は本心ではないかもしれないのに。

 

昔、このラストを見た時、取り残された感覚を味わった自分は、つまりは女性側の視点に立って見ていたということだ。主人公の気持ちに、それだけ自然に観客の気持ちを沿わすことに成功した、監督の演出術の巧みさとも言える。見事なのは、主人公側の視点に自然と立ってしまうような作りでありながら、相手側の心の動きを、そうやって、形にしていたことだ。主人公側に立って見ていた観客なら、主人公と同じように、唐突であると感じるだろう。しかし、ひとたび相手側に立てば、たとえその心の動きが事細かに描かれていなくとも、その動きの “痕跡” が見える。

 

監督は、そうやって、人の心の動きを、形としてとらえていた。虚しく絶望した心の動きをとらえていた。クシシュトフ・キェシロフスキとは、そういう映画監督だった。自分はあの時、このような心の動きについて考えられなかった。しかし今は、この青年の気持ちをこそ、思う。

 

 

 

2013/9/24