〈黒澤明映画祭〉上映作品 「七人の侍」

七人の侍」誕生60周年記念
黒澤明映画祭〉
2014年10月25日〜12月19日
1954年/207分/モノクロ
監督:黒澤明
脚本:黒澤明橋本忍、小國英雄
音楽:早坂文雄
出演:三船敏郎志村喬、宮口精ニ、藤原釜足加東大介木村功、千秋実、小杉義男、左卜全、稲葉義男、土屋嘉男、東野英治郎多々良純津島恵子仲代達矢
 
登場人物それぞれ、そしてストーリーそのもの、その両方が、とにかく非常に丁寧に描かれている、という印象。どちらかに偏ることなく、両立されているのだ。人物ひとりひとりが際立ち、ストーリーには説得力がある。その展開の巧みさもさることながら、後半最大の見どころである雨中の合戦など、殺気立っていて、目も離せない。そして、まるでスクリーンからはみ出さんばかりの三船敏郎を見ながら、こういう俳優をこそ、銀幕のスターと呼ぶのだろう、と思いつつ、今のところまだ出演作をそんなには見たことがないせいでそう思うだけかもしれないが、三船敏郎が、コミカルな役どころだったことを意外なように感じた。志村喬、ほかの俳優陣も素晴らしい。
 
そして、映画本編そのものについての話ではないが、「七人の侍」で思い出すことがあって、それは、黒澤監督が亡くなった時のことだ。その訃報が大きく報道され、コメントを求められた映画関係者の言葉が伝えられる中、山田洋次監督が、黒澤監督の訃報を聞く前日にスティーブン・スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」の試写を見たばかりだ、と記者に語っているのをテレビで見たのだ。(スピルバーグ監督が黒澤監督を師と仰いでいるというのは有名な話だが)「プライベート・ライアン」で何人かの兵士が丘の向こうから姿を現すシーンに、「七人の侍」の影響がありありと見て取れる、とスタッフと話したばかりだった、と山田監督は語っていた。偶然にも、その何日か前に自分は、2本の映画の試写会に当選していた。なぜか同じ日同じ時間の2本の試写会に当選してしまったため、どちらか1本しか行けないわけだが、どちらに行こうかと思っている時に黒澤監督の訃報があり、山田監督のコメントを聞いた。結局、「プライベート・ライアン」の試写会を選んだ。上映は、黒澤監督の訃報を聞いた翌日だった。
今回初めて「七人の侍」を見たが、それにしても、これを今、映画館で、それもフィルム上映で見られたということが、非常に貴重な体験だった。
 
 
2014年11月22日鑑賞

「嗤う分身」

THE DOUBLE

2013 イギリス

原作:フョードル・ドストエフスキー 『分身(二重人格)』

監督:リチャード・アイオアディ

脚本:リチャード・アイオアディ、アビ・コリン

出演:ジェシー・アイゼンバーグミア・ワシコウスカ、ウォーレス・ショーン、ノア・テイラー

 

ドストエフスキーを原作に、舞台を近未来に置き換えたものだが、いい意味で、それほど近未来的に見えず、まるで古く錆びついた歯車が軋んでいるかのような印象も受けるし、むしろ、時代を特定する必要性すらないとも思える。それが美しい。

 

ずっと、電球が切れたように画面の中が暗い。主人公の不安がそのまま可視化されたかの如き闇がのしかかってくる、とても悪夢的な雰囲気だ。悪夢的であると同時に、そこに惹かれる。その、画面の中の暗闇が、上映中の映画館の暗がりにそのまま地続きに繋がっているかのように思えた時に、とても居心地よく感じられ、冷たく、温度のない不安に支配されている、この映画の中の世界を、このまま見続けたいと思った。

2014/11/21

「駅馬車〈デジタル・リマスター版〉」

Stagecoach

1939 アメリカ

監督:ジョン・フォード

脚本:ダドリー・ニコルズ

出演:ジョン・ウェイン、トーマス・ミッチェル、クレア・トレヴァー

 

ようやく見ることのできた「駅馬車」。今頃になって、初めて見たばかりなせいか、映画本編そのものよりも、かつて淀川長治が、これまで見た中で特に心に残っている映画はなんですか、と訊かれ、「駅馬車」をもう一度見たい、と語っていたことのほうが、むしろ思い出深いのであるが。

2014/11/19

俳優 高倉健

高倉健死去のニュースに、とても驚いた。悪性リンパ腫で、10日に亡くなったのだという。83歳だった。

 

映画ファンとはいっても、中でもいわゆる洋画ファンである自分は、正直、高倉健出演作を決して多く見てはいない。かつて、大阪は難波の南街会館(現TOHOシネマズなんば)が2004年に閉館する際、最後の記念上映にて「ブラック・レイン」を見たのと、2006年公開の「単騎、千里を走る。」、そのくらいしか見てこなかった。

 

大阪が舞台ということもあり、やはり、より印象的なのは「ブラック・レイン」だ。しかし、「ブラック・レイン」を見た劇場も、そして、劇中に登場した、戎橋にあったビルも、もうとっくにない。阪急梅田駅構内にあったモザイクの天井、撮影当時、あれをリドリー・スコット監督が気に入っていたという話を聞いたことがあるが、あの天井も、阪急百貨店の改装に伴い、なくなった。劇中に登場した当時の大阪とは随分変わった。そして、今や日本映画は、高倉健を失った。

 

 

2014年11月18日

〈黒澤明映画祭〉上映作品 「酔いどれ天使」

七人の侍」誕生60周年記念

黒澤明映画祭〉

2014年10月25日〜12月19日

シネ・ヌーヴォ(大阪市西区九条)

酔いどれ天使

1948年/98分/モノクロ

監督:黒澤明

脚本:黒澤明植草圭之助

音楽:早坂文雄

出演:志村喬三船敏郎木暮実千代 ほか

 

黒澤明×三船敏郎コンビでの1作目、三船敏郎の映画初主演作。肺結核に罹った若いやくざ者と、その男を診る町医者。やくざ者を三船敏郎、医者を志村喬が演じている。

 

黒澤作品でつとに有名な志村喬を見るのが、じつはこれが初めてである。三船敏郎も、映画館で見るのは初めてだ(過去に「羅生門」を見たのはテレビであった)。

 

今回こうして、「羅生門」の2年ほど前の、若き日の三船敏郎を見たわけだが、黒髪が額にパラリとかかる細面(役柄上、やつれて見えるメイクも施している模様)で、黒いコート姿やげっそり弱っている演技などを見るにつけ、もしやドラキュラ役が似合うのでは?と思ったが、これが失礼に当たるのか当たらないのか、いまいち判断がつかない(のちに「スター・ウォーズ」シリーズのオビ=ワン役を断ったという逸話もあるくらいだから、ドラキュラ役も、実現しなかっただろうという気がする、空想でしかないが)。

11月11日鑑賞

〈黒澤明映画祭〉特別上映作品 『わが映画人生』

七人の侍」誕生60周年記念

黒澤明映画祭〉

2014年10月25日〜12月19日

シネ・ヌーヴォ(大阪市西区九条)

全作品30本上映/35ミリプリント フィルム上映(監督インタビューのみDVD上映)

特別上映 『わが映画人生』

1993年8月1日収録

日本映画監督協会制作、監督が監督にインタビューする記録映像シリーズの一編

DVD上映/117分

11月2日、〈黒澤明映画祭〉における特別上映(期間中1回のみの上映)の監督インタビューを鑑賞。

以下、見ながら取ったメモを元に記録。なにぶん上映中ゆえ、暗い中でろくに手元も見ないまま取ったメモであり、なおかつ、話すスピードに追いつくのもなかなかに大変で、よって、監督の発言全てを忠実に再現とはいかないが、見たその場で記録してきた内容であるし、そのへんはご容赦願いたい。

メモしきれず記憶もあやふやになってしまったことについては、間違って伝えることになる場合があるので割愛。メモを取るのが間に合ったもののみ記録。基本的には要約で、あまり細かいエピソード等は省略しつつ書いているが、できるだけ黒澤監督の使った言葉で残したつもりではある(すべてを完全に、というのは上記のような理由により無理だが)。

聞き手は大島渚監督。

 

映画界に入る前のことから始まる:

父が軍人(映画を禁じることなく、たくさん見ろ、と言ってくれていたらしい)だった。兵役検査の場に父を知る人がいて、体が弱そうだと言われ、兵役を免れることが出来た。絵が好きで、画家を目指した当時の話、兄の自殺により、自分が黒澤家の当主とならなければならず、何かしなければいけないと思ったことなど。

 

映画の世界に入って以降の、助監督時代の話など。

 

戦時中の検閲について:

(大島監督の質問:いちばん最初の監督作品に「姿三四郎」を選んだのはなぜか)検閲で3本ほどだめで、「姿三四郎」でやっとOKがでた。5時間待たされてもお茶の1杯も出ないし、ラブシーンが英米的でよくないなどと言われたこともあった。自分がどこへ行ってもケンカしてくるものだから、戦後、GHQによって検閲が廃止されたあと、こうなったら思いっきりケンカしてこいと言われ、元検閲官に、言いたいことを思い切り言った。

 

※ 当時の映画関係者であるとかの名前も幾人か出てきたが、かなり昔のことで わからないので、そのへんの記録はなし

 

「白痴」について:

赤字になったが勉強になった作品だった。ものすごい高みに達しているドストエフスキーの作品を映画化するというのは本当に大変で、なんでこんなのやろうと思っちゃったんだろう、と思ったこともある。

せっちゃん(原節子)に「あなた本当はいい人なのよ」という台詞があり、それを “黒澤さん、私どういう顔して演じたらいい?” と訊かれ、慌てて原作を読み返すと、にやりとした、と書いてある。現場でそのようにして撮ると、森くん(森雅之)がびっくりして、“黒澤さん、今のはすごい演出だ!” としきりに言っていたが、森くん、それは俺がすごんじゃないよ、ドストエフスキーがすごいんだよ、と思った。

 

脚本の重要性について:

(共同で多くの脚本を書いた小國英雄氏を非常に高く評価していた黒澤監督)これだ!というアイディアがなかなか出ず、いったいどうしたらいいのか、とみんなが悩んでいるところで、いつも、それを突破するようなことを思いつくのが小國だった。

 

映画は “世界の広場” のようなもの。いろんな国の映画を見て、こんなこと考えてるのか と知ったり、泣いたり笑ったりする。

本当は、政治がもっと映画を大事にしなきゃいけない。映画を作ってると、外国だともっと大事にされますね。外国に行くとVIPだけど、日本だと乞食だ(※ 黒澤監督が使った言葉のまま表記/大島監督は「そんなことは…」と笑って、そのあと「いやまあそうですね」と苦笑い)。

 

自分のプロダクションを作るとき、いちばん難しいものをやろう、と思って「悪い奴ほどよく眠る」を作った。お金もかかった。日本のプロデューサーシステムは本物じゃない、金は出さないけど口は出す。向こうのプロデューサーだと熱心で、自分のお金も出す。日本では、会社に映画を撮らせてもらってる、と思ってるがそうじゃない、会社もそれで儲けてるんだから。契約をちゃんとしないといけない。当時は著作権の弁護士もいなくて大変だった。

 

俺は本当は仕事が早いんだけど、準備を徹底的にするから、時間をかけて作っていると思われる。

1週間か10日のはずが、100日かかったことがあった(驚く大島監督/※「乱」か「影武者」についての話だったが、どちらのことだったかは残念ながら失念)。3回も台風がきて撮れなかった、でも会社のある東京は晴れてるし御殿場も晴れてるから、よくわかってもらえなくて、会社から人が来ていろいろ言われるんだよ、撮影現場は台風だったのに。

 

「夢」にある16分間のシーンが、リハーサルをしている時は20分くらいかかっていた。それが、リハーサルするうちに早くなっていく。そして現場で撮る時には凝縮されて短くなっている。そういうものだと思う。成瀬さん(成瀬巳喜男監督)の映画もそうだと思うが、凝縮されている。

 

映画音楽について:

早坂(作曲家 早坂文雄)は、映画音楽の仕事があるとそればっかりになって、ほかの仕事を全部捨ててしまうような男だった。本当は、早坂ともっと一緒に仕事したかった(1955年「生きものの記録」が早坂氏遺作)。

 

音楽をシーンの長さにぴたりと合わせなければいけないという、映画音楽の独特な部分についての話の途中に出た、黒澤監督の言葉:

“映画も 音楽も、時間の芸術”

 

映画制作を目指す若い人に対して何かアドバイスを、と言われ:

映画を撮りたい、と言って私のところに来る若い人は多い。そういう時は、まず脚本を書いてみろ、と言います。それなら、わら半紙と鉛筆さえあればできる。

しかし、それが皆なかなかできない。どんなものでもいい、最後まで書け、絶対に投げ出すな、と言う。一度でも投げ出すと、つらいときに投げ出すくせがついてしまう。だから、どんなに苦しくても、どんなものでもいいから最後まで書け、と言う。登山の時、頂上ばかり見て登るのではなく、足元を見て一歩一歩登るのと同じこと。ひと文字ひと文字書いていく、それは確かにしんどい作業だが、しかしそれをしなくちゃならない。

それには、本を読むことも大事。なのに、最近の若い人は読まない。何も読まずに(発想が)出てくるはずがない。何か読むなり、自分の経験なり、そういうものがあるからこそ、それを元に、想像することができるのに。つまり、“想像とは記憶である” ということ。何もないところから出てくるはずもない。成瀬さんが、いつも紙と鉛筆を持っていて、何か思いつくたびに書いていた。ちょっと読ませて下さいよ、と言ってみたことがある。すると、誰々と誰々がいて、“部屋で” “何かする”  というようなことしか書いていない。これは笑い話みたいなものだけど、成瀬さんの頭の中ではわかってるから、成瀬さんにはそれでいいんですよ。それであのすごい本ができてしまう。

 

日本には、すごい映画ばかりが出てきた時代が何十年かあり、それはどんな国にもなかった状態で、そんなことが可能だったのは何故だと思うかを(海外の映画関係者から)話してくれ、と言われたことがある。答えは簡単で、監督が撮りたいものを、監督に好きに撮らせていたから。昔はプロデューサーなんていなかった。成瀬さんなんか(制作)数が多いから、中には会社が撮れと言ったものを撮ったのもあるかもしれないけれど、それもおそらく少数だと思う。溝口さん(溝口健二監督)や小津さん(小津安二郎監督)も、撮りたいものを撮っていたはず。だからあれだけのものができた。そう話したらびっくりされたけど、本当にそうなんですよ。

2014年11月2日/シネ・ヌーヴォにて上映

「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」

〈ドキュメンタリー〉
Die Grosse Stille
2005 仏=スイス=独
監督・脚本・撮影・編集:
フィリップ・グレーニング
サンダンス映画祭2006 審査員特別賞 受賞
ヨーロッパ映画祭2006 ベストドキュメンタリー賞 受賞
ほか
 
グランド・シャルトルーズ修道院とは(解説記載の紹介):
カトリック教会の中でも厳しい戒律で知られるカルトジオ教会の男子修道院である、フランスアルプス山脈のグランド・シャルトルーズ修道院。
毎日を祈りに捧げ、清貧に生き、自給自足、藁のベッドとストーブのある小さな房、唯一の持ち物は小さなブリキの箱。会話は、日曜の昼食後、散歩の時間にだけ許される。これまで内部が明かされたことはなかった。
 
 
ドイツ人監督フィリップ・グレーニングが撮影を申請したのは1984年。その時は、“まだ早い” という返答。“時が来た” と許可が降りたのは、それから16年後だったという。
修道院内に入り、撮影することが許されたのは、監督ひとり。なおかつ、自然光のみによる撮影、礼拝の聖歌のほかは音楽を使わない、ナレーションを入れないという条件のもと、監督が9ヶ月間に渡り、修道士らと寝食を共にして撮影。撮影から完成までに費やしたのは5年。構想から数えれば、21年を経る。
 
ここに、外の世界との繋がりはない。この監督のカメラが入ったことが、おそらく初めてに近いくらいの、“外界からの眼” であろう。
 
最低限の生活音と、祈りの言葉と、賛美歌。 窓から、音もなく差し込む日の光。ストーブの白い蒸気。ひたすら淡々と修道士らの修行の日々を映し、観客はただそれを眺むるのみであるが、決して退屈に感じられることなく、むしろ心地よい。静穏が身に沁む。修道士らにとっては修行であるはずのこの日々が、まさに心の安定を得られる生きようである気がした。なにしろ、この修道院の中には、浮世のしがらみがない。それがじつに羨ましい(この “羨む” という心持ち自体が、修行に向かない人間であることの表れであろうけれど)。
 
殺伐とした人の世で生きるのは、とかく精神を削られるものだ。俗世で生きることのほうが、よほど苦行に思える。だからといって、今や誰もがこの修道士たちの修行と同様の生活を送れるものではないこともまた、同時にわかっているのだが。
 
終盤、雪の斜面でのソリ遊び(中には、日本でいうところのカンジキみたいなものを履いている修道士や、道具を何も使わずに滑り降りる修道士も)の映像に、笑い声なども入っていてなごむ。
 
祈りを捧げる修道士たちを映す時、聖書の言葉が何度も登場する。なにゆえか印象に残るのは、 “主は 私を誘惑し 私は主に身を委ねました” という一節。繰り返されるのだ、“主は 私を誘惑し 私は主に身を委ねました”  と。
 
 
2014/10/15

俳優 ロビン・ウィリアムズ

ロビン・ウィリアムズの訃報を知ったのは、8月12日の夕方だった。その死は、8月11日。自殺とみられる、と報道された。あれから1ヶ月が経った。

その時、俄かには信じ難かった。ニュース記事を調べた。いくつもの記事が出てくる。まさか、まさかと思う。しかし、否定しても、どうしようもないことだった。

 数多くの出演作を見てきた。晩年の出演作はしかし、なぜだったのだろう、日本では、劇場公開されないことが増えていった。かつてに比べると、映画館でその演技を見る機会が、ずいぶんと減っていた。それでも、ロビン・ウィリアムズは、自分にとって、特別な俳優であり続けた。それは、映画を見るようになって以来、ずっとそうだ。映画を見るようになってからというもの、今の今までずっと、特別な俳優であり続けた。映画を見るようになる直接的なきっかけとなった作品が2本あるが、そのうちの1本に主演していたのが、ロビン・ウィリアムズだったからだ。

 その映画について、この記録の中で触れたことは、1度もない。語り尽くせないからである。この場だけでは、語り尽くせないからである。その映画は、かつての記憶とともにあり、自分にとってはもはや、ただの映画ではなく、記憶と人生に刻み込まれたものである。こんなことにならなければ、その映画について、ここに書くことはなかっただろうと思う。

 映画を見るようになる直接的なきっかけとなった作品は、2本。もう1本については、今は触れない。そして、ロビン・ウィリアムズが出演していた1本が、「いまを生きる」(DEAD POETS SOCIETY/1989年 アメリカ/監督:ピーター・ウィアー)だ。

舞台は、1959年、全寮制の進学校。規律と伝統を重んじる校風の中、つつがなくエリートコースを歩むはずだったであろう生徒たちに、歩む道はひとつではなく、様々な世界があるのだということを示し、詩を教え、人生を見る新たな目をひらかせる教師ジョン・キーティングを、ロビン・ウィリアムズが演じていた。

この作品を映画館で見たことはない。初めて見た時には、制作後、何年か経っていた。そしてそれは、これ以上ないというタイミングだった。あの時、この作品を見ていなかったら、以後、映画というものを見るようになったかどうかわからない、という気がする。見るようになっていたとしても、これほど映画というものそのものを好きになったかどうかはわからない、という気がする。映画に興味のない人にしてみれば、大袈裟な話かもしれない。しかし、「いまを生きる」は、ある種、自分という人間を変えた映画だとさえ、言えるものだった。

何度となく見た。詩を知り、新しい世界を見ようとする、映画の中の生徒たちと同じように、それまでの自分の中にはなかった、映画というものを見る目を、新たに得た。自分にとって、「いまを生きる」とは、映画の中の生徒たちにとっての教師ジョン・キーティングである、と言い換えてもいいだろう。そのジョン・キーティングを演じていたのが、ロビン・ウィリアムズだったのである。

 死の瞬間、なにを思ったかなど、知る由もない。誰にも、計り知ることは出来ない。なぜ死を選ぶほかなかったのかさえも知り得ず、映画の中のロビン・ウィリアムズの姿しか知らない観客は、ただ悲しむほかない。ただ悲しむしかなく、そして、ほかに道がなかったのなら、ほかにとるべき方法を見出すことすら、もはや出来ない状態であったというのなら。せめて、楽になっていてほしい。その方法が間違っていたとか、こうすべきだったとか、そういうことは、何も言いたくない。せめても、苦痛から解放されて、楽になっていてほしい。いいでも悪いでもなく、ただ、そう願うほかにない。

 「いまを生きる」のラスト、学校を去らなければならなくなったジョン・キーティングを、何人かの生徒たちは、机の上に立ち上がって見送る。それは、かつてキーティングが、“違う視点に立って世界を見ろ” と教える時に、その比喩として、生徒たちの前でして見せた行動だった。その後、ある悲しい出来事もあり、その影響で、すべての生徒が机の上に立ってキーティングを見送ったわけではない。しかし、キーティングとの出会いによって、新しい視点を得た生徒たちは、机の上に立ち上がってキーティングを見送ったのだ。

 私は、映画を見る時、机の上に立ち上がった生徒たちと同じような心持ちで、映画を見たい。

 時間と記憶が積み重なっている。ここでどれだけ、何を書こうとも、なおも語り尽くせないほど、積み重なっている。「いまを生きる」とは、自分にとって、そういう映画である。「いまを生きる」だけではない、数々の出演作を見た。そうでありながら なお、スクリーンでロビン・ウィリアムズを見るたび、その演技を見るたび、いつも無意識に、そのどこかに、“キーティング先生” を見ていたのかもしれない。


2014年9月11日

千里セルシーシアター、閉館へ

今日、2014年8月31日、千里セルシーシアターが閉館した。

 

大阪は豊中市にある、千里セルシーというショッピングモールの地下1階にあった。新作の封切館ではなく、少し前の映画を通常より安価に見られる映画館で、数年前までは2本立て上映もしていた。100席に満たない、小さな映画館だった。閉館が発表されたのは、この7月のことである。

見逃した最近作がここで上映されるとわかるとよく見に行ったし、古い映画を見る機会もあって、1963年のルキノ・ヴィスコンティ監督作品「山猫」(実際に見たのは、1963年版ではなく2003年のイタリア語完全復元版:日本公開は2004年)や、「髪結いの亭主」の制作20周年記念デジタルリマスター版、昨年夏には、久しぶりの「グラン・ブルー」(上映されたのは2010年のデジタル・レストア・バージョン)、今年6月にはジャン=リュック・ゴダール監督作品「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」(既に見たことはあるが また見たかった)も見られた。

2本立て上映をまだしていた当時、香港の裏社会を描いた3部作「インファナル・アフェア」シリーズ(2002~2003年)が、3本立て上映されたことがある。一般1,300円(閉館までこの料金だったし、当時もたしかそうだったと思うのだが)のところ、この3本立ては、さすがに一般2,000円くらいに設定されていたのではなかったかと記憶しているが(それでも通常より安いが)、サービスデーにちょうど見に行くことができ、3本立てを1,000円の破格値で見た、ということがあった。その日は半日ずっとセルシーシアターにいて3本の映画を見たわけであり、自分が映画を見に行くようになった頃には、2本立て上映自体、しているところはほとんどなかったので、楽しかったし、この日のことは印象に残っている。

 

セルシーシアターで最後に映画を見たのは、閉館の1日前、8月30日だ。最後に上映されていた作品は「おじいちゃんの里帰り」「最強のふたり」「クリスマスのその夜に」で、この中でまだ見たことのなかった「おじいちゃんの里帰り」を見た。朝10:00からの回。閉館を惜しむ人がそれだけいるということだろう、満席ではないとはいえ、これまで見に行った中では、この日がもっとも多くの観客が入っていた。

上映が終わると、支配人だと思われる方が、「ありがとうございました」と、観客に挨拶に来た。何人かの観客が、今までありがとうございました、と答える。ひとりの観客が、「ありがとうございました、残念です」と直接話しかけると、支配人は、来て頂いてありがとうございました、と笑顔で応じながら、「我々も残念なんですが、技術革新に負けました」と答えていた。それが聞こえて、なんともいえず寂しくなった。

シネコンが悪いとは言わない。実際、シネコンにも行く。しかし、セルシーシアターのような映画館が閉館すれば、全映画館の中でシネコンの占める割合がどんどん増え、映画館というものの印象が、まるで統一されていってしまうかのように感じる。本当は、ミニシアターもあり、シネコンもあり、セルシーシアターのような映画館もあるのが、理想なのだが。

 

今年は、関西では、2月に梅田ガーデンシネマも閉館したが、同じビル内の下の階にあるシネ・リーブル梅田の一部として、シアター、設備は使われ続けている。思えば、ガーデンシネマの場合は、閉館といえども幸運なケースであった。千里セルシーシアターは、かんぜんになくなってしまうのだ。寂しくなる。

 

 

 

2014年8月31日

「ホドロフスキーのDUNE」

〈ドキュメンタリー〉

Jodorowsky's Dune

2013 アメリカ

監督:フランク・パヴィッチ

出演:アレハンドロ・ホドロフスキー、ミシェル・セドゥー、H.R.ギーガー、クリス・フォス、ニコラス・ウィンディング・レフン ほか

 

“世界を照らすものは 己の身を焼かねばならない” というヴィクトール・E・フランクルの言葉で始まるドキュメンタリー、「ホドロフスキーのDUNE」。

 

1962年〜前衛演劇を10年演出、1967年 組合を無視して 長編初監督作「ファンド・アンド・リス」を撮って騒ぎに。ホドロフスキーは言う、“芸術の創造に許可がいるか”。1970年〜 「エル・トポ」等、いわゆるミッドナイトムービーの成功により「ホーリー・マウンテン」制作(100万ドル出資された)。

 

プロデューサーであるミシェル・セドゥーから、フランスで一緒に映画を作らないか、何を作ってもいいと言われたホドロフスキーは、その原作としてフランク・ハーバートの小説「DUNE」を選び、ホドロフスキー本人が脚本を書いた。企画したのは「スター・ウォーズ」の2年前、1975年だという。バンドデシネのブルーベリー(西部劇)を読んで、メビウスを選んだ。“メビウスは私のカメラだ”、“彼の絵で映画を作った”。さらに、ジョン・カーペンターの映画でダン・オバノンの特撮を見て、彼だ、と決める。

 

ホドロフスキー:“大事なのは芸術だ、技術はその次だ”

 

音楽にピンクフロイド、出演者としてデヴィッド・キャラダイン、そして「エル・トポ」の当時で7歳、この時で12歳だった息子にも出演の準備をさせる。

 

“人々の意識を変えるような映画は、神聖な使命として 自分を犠牲にする必要がある。命を捧げる覚悟だった” とホドロフスキー。“なぜ息子を犠牲にしたのかと自分でも思う。しかしこの映画を作るのに腕を切る必要があったなら、当時の私なら喜んで腕を切っただろう” とも。

 

さらに、SF小説の表紙を見て画家クリス・フォスを知る。この時ホドロフスキー46歳。

 

そして、シュルレアリスムの画家ダリに出演交渉。銀河帝国の皇帝役に、と口説く。タロットの本の “吊られた男” のページを切り取って、君と話したい、映画を作りたい、と誘ったという。のちに、レストランでの食事中にダリはこう言ったという、曰く “若い頃、ピカソと一緒に海辺へ行った。車のドアを開けるといつも砂の中に時計を見つけた。君は砂の中に時計を見つけることができるか?” と。ホドロフスキーは言う、“すぐ答えなければ まずい、しかし いつも見つけると言えば 見栄っ張りで馬鹿な男だと思われるし、見つけないと言えば退屈な男だと思われる。すると突然思いつき、こう答えたんだ。見つけたことはない、しかしたくさん失くした、と” 。“よし、バルセロナで会おう” と、ダリは映画出演を快諾したという(しかしその後ギャラの話がうまくまとまらなかったというオマケつき)。

 

H.R.ギーガーの画集をホドロフスキーに見せたのはダリだという。ウォーホルの映画に出ていたウド・キアも出演承諾。ハルコンネン男爵役にオーソン・ウェルズを誘ったら、もう映画には出たくない、と言われたという。

 

その後も制作準備は難航。ハリウッドが考えるSFとは違いすぎて、どの映画会社でも、監督がホドロフスキーではダメだとか、長すぎるから1時間半にしろと言われたりしたという。とにかく、資金を出す会社がない。

 

ホドロフスキー:“このシステムは私たちを奴隷にする。ポケットの中の恐ろしい悪魔のせいだ、この金のために。この中には何もない、ただの紙切れだ。しかし映画には心がある、精神がある”

 

資金が集まらないうちに、有名プロデューサーであるディノ・デ・ラウレンティスの娘が私たちから企画を奪ってデヴィッド・リンチに渡した、というのはギーガーの弁である(D・リンチ監督作「デューン/砂の惑星」のことを指す)。そのことについてホドロフスキーは “ショックだった、なぜなら、彼は この映画を作ることのできる才能のある、唯一の監督だ”。

 

“私の映画をほかの監督が作るなんて、見る気もしなかったが、息子に言われて見に行った。始まった時は今にも泣き出しそうになったが、見ているうちに元気が出てきた。なぜなら、映画があまりにも ひどかったからだ。おとなげないかもしれないが、私はそう思った。そして、才能あるリンチがあんな駄作を作るはずがない、これは(向こうの)プロデューサーのせいだ、と思った” とホドロフスキー。そしてミシェル・セドゥーは、企画を奪われる形となり、つらい思いをした「デューン/砂の惑星」を、一生見るつもりはないと語る。

 

しかし、各大手映画会社に持ち込まれていたホドロフスキーによる「DUNE」の絵コンテは、ハリウッドに影響を与えたという(あの「スター・ウォーズ」にも、ということだが)。というのも、のちに制作された多くの映画の中に、この絵コンテに似たシーンのあるものが、非常に多いのだという。そして のちに、H.R.ギーガーが「エイリアン」のデザインを担当するなど、ホドロフスキーと一緒に映画を作ろうとした画家や作家らが、他の映画で才能を発揮してゆくこととなる。

 

ホドロフスキー:“誰かが この脚本で映画を作ればいい”、“私が死んでも映画は作れる”

 

「DUNE」を実現できなかったホドロフスキーとセドゥーは、別々の道へ。そして35年後、また一緒に映画を作ろうと決めた。それが「リアリティのダンス」である。

 

〈ここまで、鑑賞時のメモをもとにしたドキュメンタリーの内容の大まかな記録

 

 

アレハンドロ・ホドロフスキー監督作品といえば、「エル・トポ」は以前見た。「サンタ・サングレ/聖なる血」は、気になってはいたが見てはいない。ほかは今のところ見ていない。作品に関しては、そういう感じである。

 

ホドロフスキー監督が話す様子に関しては、この「ホドロフスキーのDUNE」の中でも触れられている “ミッドナイトムービー” なるもの、それについてのドキュメンタリー映画において、インタビューを受ける様子を過去に1度見ている。その当時は、「エル・トポ」など作品はまだ見ておらず、ホドロフスキー監督のことは知らなかった。

「ミッドナイトムービー」 真夜中に始まる儀式 - 映画日記/記録

 

そして今回、久しぶりに、監督の作品ではなく、監督本人が話す様子を見。「DUNE」が制作され得ずに幻の映画となりゆく顛末を、おもに監督の口から語られる形で聞き、思った。思った、というのは、これは個人の感覚であり、まったく違う捉え方をする人がいるだろうことももちろんわかっているし、ただ自分はこう思った、というだけのことで、あくまでもひとつの捉え方である、という前提である。なおかつ、この監督の作品そのものには、面白い・美しいと思う部分もある反面、自分には ついていけない部分もかなりあったがゆえ、このように思うのかもしれないが。

7:3ぐらいで、ホドロフスキー監督自身の話術のほうが、作った映画より面白いのではないか、と。そう思ったのである。

監督の話しぶりは、受け取る側によって、大言壮語に聞こえる場合もあるだろうし、へたをすれば うさんくさいとも受け取られかねないほど、例えが大きすぎることもある。しかしおそらく、大袈裟なほどの その感情表現に親しみを覚え、その熱い語りに心動かされる人もまた、多いのではないか。

実現し得なかった「DUNE」制作に関し、かつてあれだけの面々が名を連ねたのは、あの話術で、“ホドロフスキーと一緒に仕事をしたい” と、相手を酔わせたからこそではないだろうか、と思われたのだ。このドキュメンタリーを見ていての監督の話しぶりは、それほどの人間的魅力を感じさせるものだったのである。

監督自身には、話術で人をどうこうしようというつもりは別になくて、“とにかく映画を作りたいんだ!” と思っている、ように見えた。 しかしだからこそ、監督と関わった人々の多くが、その熱意に動かされたように感じられる。 つまりそれだけ、人をひきつける語り口だったのだ。

ちなみに、語られた顛末の中で特に興味深かったのは、ダリに関するエピソードと、デヴィッド・リンチ監督の「デューン/砂の惑星」を見た際の話。それも、後者について話す監督の、泣き出しそうになったというところでは肩を落として泣きまねをし、出来がよくなくて見ているうちにだんだん嬉しくなった、というところでは徐々にたかまる感情を笑顔と身振りで再現し、そうやって感情表現豊かに話す様が、ことのほか面白かった。

 2014/7/8