「世界侵略:ロサンゼルス決戦」 これはSFではない。
キャストはアーロン・エッカート、ミシェル・ロドリゲスら。NE-YOがどれかわからなかった。臨場感を演出するための画面の揺れに酔いそうになる。これからロス奪還、で終わるが、“これから”というところで終わる形は近頃の流行りなのか。それにしても、地球壊滅しすぎだ。
見る前は、海兵隊の一小隊が“最後の砦”だなどと、いかにも安易でハリウッド的、と思ったが、そこには別の理由があった。
最初は、これだけの映像を作ることができる、という技術を見せたいのか、と思い、そのうち、軍事マニアを喜ばすような映画か、と思ったが、最終的に、《米国軍人がいかに高潔か》ということを描きたい米軍宣伝映画なのだ、と思った。なんせ、地獄のような状況でも常に祖国に忠誠を誓い、自らを犠牲にして命懸けで民間人を守り、なおかつそのことに一切の疑問も抱かない、という兵士ばかりが描かれている。海兵隊が主役なのは単に安易なだけでなく、こういう理由だったのだ。つまり、かつて「エネミー・ライン」が最新戦闘機の宣伝映画だと言われたように、こちらは米国軍人の宣伝映画なのだ。
最近の戦争映画は、戦争の無意味さ・残酷さを追及して反戦を謳い、兵士が自らの立場・行動や命令されて人を殺すことに疑問を抱く姿が描かれるものが多いが、なんせこの映画の場合は敵が宇宙人で、人間同士の戦闘ではないため、敵を殺すシーンで登場人物に躊躇させなくても“単なる人殺し”には見えないだろう、と判断されたようで、《祖国・同胞を守るための戦争》を心おきなく礼賛している、という感じだ。
もはや、国対国及び人対人の戦争を題材にしては、《アメリカが理想とする、戦うことに迷いのない高潔な軍人》は描けない、ということか。だから敵を宇宙人に設定する必要があったのだろう。「人間以外は皆殺しにしろ」という上官の台詞が出てくる。なんの迷いもなく宇宙人を倒す兵士は堂々と描けても、人間を殺すことになんの迷いも持たないような兵士は、今の時代にはもう、“アクション映画”の主人公にはできても“戦争映画”の主人公にはできないのだ。だからこそこの映画にとっては、敵を宇宙人に設定することが重要だったのだ。敵として描くのが“人間でさえなければ何でもいい”わけで、だから宇宙人自体の描き方にはそれほど力が入っているようには感じられず、侵略の目的は地球の資源、という平凡さだ。
もちろん、宇宙人が、《アメリカに脅威となる敵》、つまり《テロリスト》の比喩である、という風にも、容易に見て取れる。「人間以外は皆殺しにしろ」という台詞は、つまりは「アメリカにとって脅威となる者に対しては容赦するな」だ。
ここまで書いてきたような意味合いの映画である、と読みとれる分、宇宙人が登場しながらも、SF色は非常に薄い。
そして、海兵隊の主人公らが宇宙人の指令系統を殲滅し、これを機にロス奪還、と、休む間もなく再び戦いへ赴く、というラストでますます確信した。
これはSFではない。たとえ地球外生命体が出てこようとも。
2011.9.21