「ローマ法王の休日」

Habemus Papam
2011 伊=仏
監督・脚本・出演:ナンニ・モレッティ
出演:ミシェル・ピコリ
    レナート・スカルパ
    イエルジー・スチュエル



作品の物珍しい題材にも興味があった。監督の手腕も間違いないと思った。しかし、どうしてもこの映画を見たかったもっとも大きな理由は、ミシェル・ピコリである。


かつて初めてミシェル・ピコリを見たのは、映画を見始めた頃に見た「五月のミル」や「汚れた血」だ。今思い返しても、この2本でずいぶん違う雰囲気だった。のちに、マノエル・ド・オリヴェイラ監督93歳の時の作品「家路」や、同じくオリヴェイラ監督の「夜顔」、遡って若き日のジャン=リュック・ゴダール監督作「軽蔑」、フレンチミュージカル往年の傑作「ロシュフォールの恋人たち」やルイス・ブニュエルの「昼顔」などを見てきた。


ヨーロッパの俳優で、現役なおかつベテランの、文字通り類い希なる演技を見せてくれる俳優、突出した5人の名を挙げるとすれば。思い浮かべるのは、ピーター・オトゥールマックス・フォン・シドーブルーノ・ガンツ、ジャン・ロシュフォール、そして、ミシェル・ピコリである(もちろん、知る限りで、である)。


何億という信者をもつカトリックの頂点なる法王に選ばれ、余りの重圧に耐えきれず姿を隠す。押し潰されんばかりの苦悩、枯らした声や息切れ、声なき瞬間に見せる表情。それらが主人公メルヴィルの背負う重圧を物語って悲痛ながら、しかしそれと同時に、なんとか心の動揺を抑えようと振る舞う様をも見せる為、決して過剰に悲劇的になりすぎることがない。自分などが言うのもおこがましいが、名優の演技には、そういう、言いようのないほど絶妙な匙加減を感じる。


ナンニ・モレッティはかつて「息子の部屋」で、過剰な説明を排したその作風を、カンヌの審査員から、“彼は私たちを子供扱いしなかった”と評された、という記事を読んだ記憶があるが、今回もそうだ。監督演じるセラピストが、同じくセラピストである別れた元妻について“幼時障害にこだわりすぎ”だと語る。のちに、劇中に幼時障害にこだわる女性セラピストが登場するが、それが元妻だという描写は一切ない。観客に想像させる。その後、元妻の現在の交際相手もセラピストだと語るシーンがあるが、先に書いたようなことがあったため、しまいには、そのあと登場した、テレビ出演中のセラピストこそがその交際相手なのではないか、と観客である自分が勝手に思ってしまう。もちろん、それを示す描写は一切ない。あとで劇中でそれらの事実が判明してそうだったのかと驚いたりひと悶着あったり、というような、ハリウッド製コメディ的なシーンは一切ない。そういう、説明のない作風が非常に特徴的であり、また、魅力的に思える。


ラストに驚く。今後どのような解決を迎えるのか、どうとも受け取れるラストである。そう言うと、そんな映画はたくさんあるじゃないか、と思われそうだが、しかし、この作品においては、よくあることだと思う以上に、驚きがまさった。ラストへ至るまでの積み重ねがあるがゆえに。


主人公が思い直し、“やはり法王になります”、という行く末になるのか。それとも、新しい人を選びました、という行く末になるのか。こちらが想像するだけで、それら(あるいはもっと別の続き)は、描かれないまま終わるのである。ヨーロッパの映画には、客受けを考え起承転結を重んじる(最近では続編制作を匂わすというのも多いが)ハリウッド映画に比べ、唐突なラストや解決を見ないままのラストが比較的多いが、悩み途方に暮れる“新法王”の姿をミシェル・ピコリほどの名優の演技で見せておきながら、その後どうなったかがわからないまま、というのが、あまりにも深く刻みつけられてしまうのである。答えを出せず、“今はそれしか言えない”、という新法王のその言葉を聞き、胸を痛める信者たち、顔を覆い悲嘆に暮れる枢機卿ら。それほどまでにドラマチックなシーンで、続きを描かずそのまま終わってしまうのである。


ここまでストーリーを積み重ねてきた上での、崖から落ちるほど唐突なこの終わり方は、自分にとって衝撃であり、ここ最近に見た映画の中でも、これほど心奪われたラストシーンは稀である。


新法王がとある劇場の観客席にいるとわかり、枢機卿たちが正装して迎えにゆくシーンも、赤が鮮烈、非常に劇的で目を奪われた。




2012.7.31