〈テオ・アンゲロプロス監督追悼上映〉

ユリシーズの瞳
1995 仏=伊=ギリシャ
監督:テオ・アンゲロプロス
出演:ハーヴェイ・カイテル
    マヤ・モルゲンステルン
    エルランド・ヨセフソン


こうのとり、たちずさんで
1991 ギリシャ=仏=スイス=伊
監督:テオ・アンゲロプロス
出演:マルチェロ・マストロヤンニ
    ジャンヌ・モロー
    ゴレゴリー・カー


「霧の中の風景」
1988 ギリシャ=仏
監督:テオ・アンゲロプロス
出演:タニア・パライオログロウ
    ミハリス・ゼーゲ
    ストラトス・ジョルジョグロウ



ユリシーズの瞳
マナキス兄弟が1905年に撮った映像が、ギリシャ・バルカン半島最初の映画と言われる(事実かフィクションかは知らない)。マナキス兄は、ある日見かけた青い船を再び見るまで待ち続け、それをフィルムに収めた夜に死んだ。死ぬ前に、“1905年に撮って未現像のままのフィルムが3巻ある”と言い残した。


映画監督である主人公は、35年ぶりにギリシャに戻り、自作を上映、しかし狂信者(※と劇中には出てくるが詳しくわからない)たちから上映反対の憂き目にあう。そして、かつての女を見かける。タクシーでアルバニアへ。


主人公が1940年代に迷いこむシーンがある。一族が皆集まった新年(アンゲロプロスはほかの映画にもこういうシーンが)。しかしそれは、SF映画のタイムスリップとはあくまでも違う。そしてこれを、主人公が見た夢だ、という一言で片付けるのはあまりにも味気ない。


それは、主人公が記憶と過去に思いを巡らす視点であり、またその感情の動きだと思える。映像だからこそ表現できるシーンである。そして、監督にとって、郷愁の表現なのだろうと思う(監督にとってはダンスもキーワードのようだ)。現在の主人公と過去の時間が混在する様は、非常に詩的で美しい。タイムスリップでも、単純な夢のシーンでもない。頭の中の世界を可視化できるのが映画芸術の醍醐味である。


サラエボへの道中、助けてくれた女性とのひととき。そしてついに、3巻のフィルムを持つ人物を見つけ出す(※この映画の現在は1994年12月(見つけた日))。主人公がベオグラードで聞いた話:マナキス弟は、フィルムをユーゴの同僚に渡していた。その人物を見つけたが、昔のものなので現像液の組成を解明できず、古いフィルムの現像の専門家(=それがサラエボの人物)に渡した、という。しかし、サラエボは内戦のただ中である。そして、その人物を説得し、現像に成功する。


霧で砲撃がやみ、つかの間、戦火を逃れるサラエボ。しかし容赦のない虐殺。現像した人物もその娘も親戚も、皆殺しにされる。……


つねに旅人の視点。



こうのとり、たちずさんで
ユリシーズの瞳」や「エレニの旅」、「永遠と一日」と比べると、俗っぽさが漂う(悪い意味ではなく)。他作品とは異質なイメージ。


境界線の川をはさんだ無言の結婚式のシーンをあれだけ長く撮るのは、アンゲロプロス作品でもなければ、ないことだと思った。
ラスト、いつも“彼”がそうしていたように、工事のために電柱にのぼる “大勢の彼” を主人公が目にするシーンで、急にシュルレアリスム的様相を呈す。



「霧の中の風景」
国境。ダンス。壊れた(壊された)石像が海に。アンゲロプロスの印だ。






2012.8.4/8.9/8.10