「秋のソナタ」 抑圧の歴史

〈デジタル・リマスター版上映〉

Höstsonaten

Autumn Sonata

 1978 スウェーデン

監督・脚本:イングマール・ベルイマン

撮影:スヴェン・ニクヴィスト

出演:イングリッド・バーグマン

    リブ・ウルマン

    レーナ・ニイマン

    ハールヴァル・ビョルク

    エルランド・ヨセフソン

イングリッド・バーグマン没後30年

イングリッド・バーグマン 遺作

 

  

空間の切り取り方が美しい。画面が 部屋を四角く切り取り、その中に人物がいる。大きく顔を映す、あるいは、四角い部屋の中を遠くから見つめる視点。ただ部屋の中にいる、それだけで人物が際立つ。

 

7年ぶりに会う母と娘が話す様子、微妙に変化する表情。長年に渡る、言い知れぬほどの確執・葛藤が、眼の動き、口元の端にも浮かぶ。ふたりを捉える この映画の視点が、決してそれらを見逃さない。実の娘の前ですら、虚飾を纏わずにいられない母。母から愛されなかったこと、認められなかったこと、抑圧されてきたことを、大人になっても苦しみ続ける娘の、その心理。

 

娘エーヴァが、真夜中に心情を吐露するシーンこそが、この映画の、まさに心臓部である。

 

母から愛されたいと渇望しながら叶わず、認めてもらえず、萎縮し、抑圧されてきた痛みを語る、その声、言葉、眼、表情。映画を見ているのに、映画ではないかのようだ。なぜ、映画でありながら、これほどまでに真に迫った人間の姿を 画面の中に捉えることが出来たのか。

 

そして、ふたりの言葉も、その記憶も、すべてが食い違う。

 

娘の語る過去を、母はまったく違う意味に記憶している。それほどまでに、両者の気持ちも意図も乖離していたということだ。母から愛されたいあまりに自分を抑えていた娘を、母は、それこそが娘の姿だと思って見ている。理解へとたどり着くことは決してない。

 

この食い違いを、見たことがある、この食い違いを、自分も知っている、と思った。

 

人との関係で苦しむ。どれほど言葉を重ねようとも 決して理解されることなく、それはすべて徒労に終わる。気が遠くなるほど平行線をたどり続ける。その線は交わらない。母と娘に限ったことではない。人間同士の、永遠になくならない食い違いである。

 

この食い違いを、虚しく平行線をたどり続ける、眩暈のするようなこの感覚を、知っている。人生の中にあったものだからだ。

 

確かに、これは映画だ。整えられたセット、隅々まで効果を計算して撮影された美しい空間、その中で、高度な技術を持った名優が演じている。あくまでも映画である、『作品』 である。しかし、それでいてなお、この映画は、ある種の真実を、その ある一面を、画面の中に捉えている瞬間がある。

 

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リブ・ウルマン演じる、娘エーヴァの髪型・服装が、大人の女性のそれというよりは、少女のもののような雰囲気である。母から抑圧されていた過去の葛藤を捨てられないまま大人になったがゆえに、無念の残る少女時代、少女性というものから、脱することができないということなのか。それとも、リブ・ウルマンのイメージ等に合わせて用意されたものなのか、あるいは、制作当時(1978年)の感覚、というだけのことなのか。そのあたりが気になる。

 

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印象に残る台詞が いくつかある。

 

“人間は神に似せて作られたものだから、すべてを持っている 悪人、聖者、預言者、芸術家、偶像破壊者、すべてが ひとりの中にある ”

前半は宗教的見地による言葉なので別として、後半は理解できるし、事実、そうだろう。

 

“現実はひとつではない、さまざまな現実が 人間を取り巻いている”

“恐れが 境界を作っている”

 

エーヴァは、ベートーヴェンの音楽を “境界のない 無限の世界”、とも。

イングリッド・バーグマン演じる母(ピアニスト)が語る、ショパンの音楽についての解釈も素晴らしい。

 

そして、抑圧されながらも母を求め続けていたエーヴァが、幼少期、ピアニストである母が頻繁に長く家を空け、離れ離れに過ごした時のことを、“悲しかった、心臓が止まるかと思った 5分でもつらいのに2ヶ月も耐えられる? 死んでしまうかと思った”  と語るその言葉が、単なる恨みつらみではなく、切実な心の叫びとして響く。こういう気持ちを知っている、と思い当たった瞬間に、息苦しくなる。

 

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映画の終わり。 エーヴァの家を離れ、指揮者とともに列車に乗る この母は、エーヴァの妹、つまり、もうひとりの娘である、病の進行したヘレーナについて、“死ねばいいのに”  と こぼす。 そして、娘たちが あまりにも私に母としての役割を求めすぎていたのだ、私は悪くない、と、指揮者に向かって言い募る。うすら寒くなるようなシーンである。

 

母が去ってもなお、ふたりの娘の感情の波立ちがおさまらない様を描いた点も、また見事である。現実に、人と人との間で感情のぶつかり合いがあった時、その後も 心中が波打ち 昂るというのは、しばしば起こることである。

 

最後の最後に、エーヴァが、“それでも 赦すことはできるのではないか” と、赦しを見出すシーンは、監督自身の宗教観などの影響も あるのではないかという気がした。 そして、予感する。 この母と娘に、和解の時は来ないと。

 

 

2013/2/6