「孤独な天使たち」 どんなに美しい朝であろうと、闇は存在する

Io e te

2012 イタリア

原作:ニッコロ・アンマニーティ 『孤独な天使たち』

監督:ベルナルド・ベルトルッチ

出演:ヤコポ・オルモ・アンティノーリ

   テア・ファルコ

 

14歳の少年ロレンツォは、自分を理解してくれない親や周囲に距離を置き、ひとりになりたいと、学校のスキー合宿に参加すると言って嘘をつき、その日程中、ひそかに地下の “隠れ家” で過ごすことに。そこへ、離れて暮らしていた母親違いの姉・オリヴィアがやってくる。

 

当初は、もともと互いに距離のある存在であったことから、特にロレンツォの側からの、憎しみに似た気持ちや、敵対心が表面化する。しかし、ともに過ごすうち、弟は、じつは自分が周囲から守られていたことを知らされ、姉は、薬物依存を断とうとするがゆえに苦しむ虚飾ない姿をさらし、ロレンツォを自然と “弟として” 扱い、“姉らしく” なってゆく。

 

姉弟として打ち解け、弟は、まるで憑き物が落ちたかのように、それまでくすぶっていた気持ちを払拭し、姉は、薬物を絶つ決意を固める。地下室を出ると、そこは新しい日の、美しい朝だ。

 

しかし、そんな美しい瞬間にも、闇は必ず存在する。ここでは、“煙草の箱の中の薬” が、その闇を暗示する。 

 

ともに過ごす最後の夜。ロレンツォが寝たあと、オリヴィアは、こらえきれずに、売人から薬物を買う。しかし、どうにか思いとどまってその薬物を煙草の箱の中にしまい、翌朝出発の際に、煙草をそのまま “置き忘れる” のだ。

 

ロレンツォから、煙草を忘れていると言って差し出された時、オリヴィアは黙ってロレンツォの顔を見つめる。なおも手渡そうとされると、間をおいて、それを受け取る。この映画は、その瞬間を、クローズアップして見せたりはしない。オリヴィアの手の中にそれはあるのだ、しかし、それが暗示する闇や悲劇を、監督はそれ以上描かない。想像するのは観客だ。まるで、希望に満ちたように見える朝。またこうして過ごしたいと無邪気に言うロレンツォと、闇を手にしたオリヴィアとが、路上でそれぞれ違う道へと別れたことが、その後のふたりの道を暗示するようにも思える。しかし、監督は、必要以上にそれをそうだとは見せないのだ。光が見えたようでいて、そこには闇もある。監督は、それを暗示として見せる。劇的にせず、形なく、ただ、破滅の匂いを。

 

 

 若いふたりの、まさにその年頃の少年少女そのまま、というような、生意気さや無邪気さ、飾らなさを体現した演技が素晴らしい。

 

最後の夜に、ふたりがかける音楽は、デヴィッド・ボウイ 『スペイス・オディティ』Space Oddity のイタリア語バージョン、『ロンリー・ボーイ、ロンリー・ガール』 とのことである(2010年発表 『スペイス・オディティ/40周年記念エディション』 に収録)。デヴィッド・ボウイのことをまったくよく知らないので当初この曲のことも知らず、イタリア語版を映画予告編で聞いただけだった。ボウイを好きな人によると、イタリア語版は、原曲の英詞をそのままイタリア語訳したわけではなく、まったく違った内容の歌詞になっているそうだ(エンドロールで流れたこの曲は英語だったため、ボウイ歌唱の原曲であろう。いかんせん、ボウイの声もよく知らないため、英語だから原曲であろうと思っただけで、声だけでは判断できず)。

 

イタリア語版は、劇中で流れるのを聞く以前から、予告編にて何度か聞いていた。そのため、その箇所が非常に印象に残っている。

 

以下、字幕に出ていた通りの日本語訳 :

 

孤独な少年よ 今からどこへ

夜は大きな海

泳ぐのなら 手を貸すけれど

ありがとう でも 今夜 僕は死にたい

僕の目の中には 天使がいるから

とべなくなった天使が

 

劇中の二人を、あまりにもよく表した詞だからなのか、なぜかわからない。とにかく、何度も何度も、頭の中で繰り返されるのだ。何度も何度も、思い浮かぶ。ありがとう、でも今夜僕は死にたい、と。

 

 

2013/5/21