「処女の泉」 宗教観の壁をも越える心理描写

イングマール・ベルイマン監督 生誕95周年

特集上映〈イングマール・ベルイマン 3大傑作選〉の1本

〈デジタルリマスター版〉

Jungfrukällan

The Virgin Spring

1959 スウェーデン

監督:イングマール・ベルイマン

脚本:ウラ・イザクソン

撮影:スヴェン・ニクヴィスト

出演:マックス・フォン・シドー

    ビルギッタ・ヴァルベルイ

    ビルギッタ・ペテルソン

    グンネル・リンドブロム

第33回アカデミー賞 外国語映画賞 受賞

第17回ゴールデン・グローブ賞 外国語映画賞 受賞

 

 

もう何年前のことか。テレビで、深夜の放送を一度だけ、見たことがある。それ以来だ。

 

中世のスウェーデンが舞台である。娘を殺され、その復讐を遂げようとする父親(名優マックス・フォン・シドーが演じている)。怒りと悲しみに打ち震わせた全身を、言葉もなく、娘を殺した男たちにぶつける。男たちを亡きものとした、その燃えたぎる復讐心は、しかし、同時に、極限的な絶望である。壮絶な復讐が繰り広げられた室内は、まさに、絶望で満ち満ちている。

 

そして、娘の亡骸を見た父親は、神に問いかける。罪なき子が殺されるところも、私が復讐によってこの手を血に染めるところも、あなたは見ていたはずだ、なのになぜ、沈黙し続けるのか、と。

 

何年も経った今、ふたたび見て思う。あの時の自分の、この映画への理解というものは、ストーリーを、ただ表面的に見ていただけの、ひどく浅いものだったのであろうと。

 

娘の亡骸を抱き上げると、横たわっていた場所の地面から、泉が湧き出る。この映画を一度目に見た当時、このシーンは、“宗教的な意味においての奇跡” として、あくまでも象徴として、描かれているのだと思った。しかし今回、もしかしたら、それだけではないのかもしれない、と感じた。

 

季節が移り変わろうとしているが、まだまだ寒さを残している。この映画は、終盤まで、そういう時期を舞台に描かれている。そして、泉が湧き出るシーンでは、かすかに光が差したかのように見え、小鳥の囀りが聞こえ、春の訪れが示される。ということは、雪解け水が流れ出したとも解釈できる。つまり、監督は、この泉の湧出を、自然現象としてもじゅうぶん解釈できるよう表現し、超常的に起こった、文字通り “人知を超えたところにある奇跡” としては、必ずしも描いてはいない、ということになるのではないか。しかし、近しい者の死に接し、絶望していた人々が、泉の湧出を、神が起こした奇跡として捉える姿もまた、同時に描いている。

 

奇跡が起こったのではなく、自然の中に、奇跡を見出す。つまり、神から与えられた奇跡ではなく、人間が自ら見出した奇跡である、ということなのではないか。自然の中に、自らを取り巻く周囲の世界の中に、人間が、自力で見つけ出した奇跡である、ということなのではないか。現象そのものが、事実として、奇跡であるかどうかは、もはや問題ではないのだ。

 

二度目に見た今回、突如、そんなふうに感じた。ベルイマン監督の作品は、宗教的な表現が多く用いられ、宗教的観念が色濃く表れている。そのことに引っ張られ、象徴的なものとして描かれているのだと思っていた泉のシーンは、しかし、それだけに限ったものではなかった(と解釈する余地がある)のだ。

 

ベルイマン監督作品が、北欧のみならず、世界的に傑作とみなされているのは、つまり、人種も宗教も時代も関係なく、見る者に訴えかける作品であるからだ。宗教的側面があっても(あるいは、それ そのものをテーマに据えていても)、その人物描写・心理描写は、宗教を通して、そして突き詰めて、人間そのものを捉えようとしている。だから、国も人種も宗教観も違う観客の内面にすら、深く響く。たとえ、監督の宗教観とは違った考えを持っていても、神など信じていなくとも、映画の中に描かれている人間の姿と、実際の人間のありようを、重ね合わせるがゆえに。

 

最後に、先に書いた、“人間が自ら見出した奇跡” という解釈について。そのように書くと、ずいぶんと希望ある解釈をしているかの如く受け取られるかもしれないが、必ずしもそうではない。つまり、なぜ、奇跡を見出そうとするのか、ということだ。なぜ、奇跡を見出したいのか。そうしなければ、耐えられない。たとえそれが、錯覚であろうとも、幻想であろうとも、周囲の世界の中に、救いを見出さなければ、生きていられない。救いがなければ、もういても立ってもいられない。そうしなければ、生きていられないからだ。

 

 

2013/8/21