「日本の悲劇」 これほどまでの閉塞

2012 日本

監督・脚本:小林政広

出演:仲代達矢

    北村一輝

    大森暁美

    寺島しのぶ

 

 

職を失い、妻子を失い、母を失った男が、ただひとり残った家族である父親とともに、自宅へ帰ってくる。父親が、癌の治療を拒否し、病院から戻ってきたのだ。もう長くはないと、宣告されている。モノクロ。動かない視点。向こうの部屋に、父にとっての亡き妻、息子にとっての亡き母の遺影が見える。次々と、絶望的な状況が明かされる。いくら面接を受けても決まらない仕事。父の年金だけで食いつないでいる暮らし。息子は、もうあとがないほどにまで、追い詰められている。

 

父は、お前の顔ももう見納めだ、と息子に言う。部屋にこもり、内側から釘を打ちつける。飯も食わんし水も飲まん、もしこの扉を無理に開けようものなら、この場で自らののどを突き刺す、と。

 

そして、困惑する息子に、こう言うのだ。 これがお前にしてやれる最後のことだ、と。

 

冷徹なまでに動かないモノクロの視点が、父親の脳裡に、過去を甦らせる。音楽はない。父と息子のやり取りを、音楽のない空間が、すべてとらえる。なにかあるごとに鳴り響く、忌まわしい電話の音。ずっとモノクロだったこの映画の中で、唯一、カラーになるシーンは、かつて、息子夫妻が、生まれたばかりの初孫をお披露目にやってきた日のことだ。大喜びして迎え、酒を酌み交わして祝った、その日の出来事。

 

喜びと呼べる瞬間は、過去にしかない。今この時に、喜びはもはやない。

 

監督が “悲劇” と呼ぶ、どうしようもない閉塞状況。誰にも起こり得る。今そうなっていなくとも、将来に至るまで絶対安泰だなどと、誰が言い切れようか。そこに至るまでに手を打つべきだなどというのは、“外側” にいる人間の言葉である。渦中にあってはまさに、四方を壁に囲まれているも同然。そこにひとたび陥れば、もはや助けを乞う方法すら見失う。それは、人をなすすべなく疲弊させ、絶望させる。

 

“声” が耳に残る映画である。それも、痛切な、悲痛な声だ。音楽がなく、動きがない分、声が、真っ向から観客に向かってくる。

 

息子がどんなに言葉をかけても、飲食を一切拒否し、扉を開こうとはしない父。どうにも出来ず、困り果てた息子が、死なせるわけにいかないんだ、お父さん、お父さん、と泣き叫ぶ声。その時、父が、弱りきった、か細い声で、息子の名を呼ぶ。何度も、何度も呼ぶ。息子の名を、何度も呼んで、言う。頼むから、俺をこのまま死なせてくれ、と。人の名を呼ぶ声が、これほどまでに悲しく聞こえることがあろうか、と思うような声で。あるいは、あり得るのかもしれない、さいごの瞬間、思いを残す名を呼ぶ時、これほど悲しく聞こえることが。

 

改めて思い出す、これがお前にしてやれる最後のことだ、という、この父親の言葉。その意味。ラストシーンに震撼する。

 

 

2013/9/11