「髪結いの亭主」 Le Mari de la coiffeuse (1990フランス)

少し前の映画の話だ。


2011年に、公開20周年記念でデジタル・リマスター版も公開された、パトリス・ルコント監督の「髪結いの亭主」を思い出した。


ラスト、理髪師であった妻はすでに死んでいるが、知らずに散髪にやってきた客に対し、主人公は、「妻はもうすぐ戻る」と言う、まるでまだ生きているかのように。妻の死を知った時の主人公を描いたシーンでも、その心中に渦巻く感情を露にする描写はない。増水した川から妻の遺体が引き上げられている現場で、雨の中、妻の遺した手紙を読む後ろ姿のみである。


この映画を初めて見た当時、それらの表現は、ヨーロッパの監督の作品に多く見られる、またはこの監督特有の、起伏を抑えた表現なのだと思っていた。しかし、何度か見ていれば、その間に自分にも何らかの感情の動きがあり、一本の映画でも、見え方が変わる場合がある。


悲しみのあまり、言葉すら、涙すら出ない、というのとは、少し違うように見える。この映画で、最初から最後まで通して描かれる、主人公と妻の、ほかの人間を寄せつけないほどの関係性からすると、諦めというのとも違う。


この主人公が、妻を失った悲しみ苦しみを露にしないのは、それらの感情を抑えこまなければ、もう妻がいた頃のように生きていけないからだ(だからこそ、妻の死後もその愛情は変わらず、ひたすら思い出の中だけに生きている様が描かれている)。


悲しみ、苦しみの感情は、深いほどそれを持っている人間に重圧をかけ、蝕む。その感情は、目に見えず形もないが、抑えることができなければ、自分自身をがんじがらめにする地獄となり、自分をとらえて閉じ込める牢となる。外界から受ける苦痛とは違う。外界にあるのは事実のみ。その事実に対して いだいた自分の感情に、自分がのみこまれるのだ。


この主人公の描写は、ただヨーロッパ映画特有の淡々とした表現、というだけでは必ずしもなかった。ただ妻の死を受け入れられずに現実逃避する姿、というのとも違う。


会いたくても会えないというのは、相手が生きていても死んでいても、狂おしい感情をもたらすことがある。どれほど会いたくてもそれが叶わない苦しみ、喪失の悲しみ、そういった感情にひとたびのみこまれたら、もはや身動きがとれなくなり、耐えがたい苦痛を味わう。そうなれば、いずれはその感情にすべてが侵食される。だからこの主人公は、自分で自分の感情を殺すほかなかったのだ。



もう何年も前の真夜中、テレビで見、その後しばらくしてまた見る機会があり、一昨年、スクリーンで見る機会を得た。見る毎に視点が変わり、見る度何かを思う。そういう映画について、ふと想像した話である。






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