「バードマン あるいは (無知がもたらす予期せぬ奇跡)」 ~ 壊す試み

Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)

2014 アメリカ

監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

脚本:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、ニコラス・ジャコボーン、アーマンド・ボー、アレクサンダー・ディネラリスJr.

出演:マイケル・キートンザック・ガリフィアナキスエドワード・ノートンナオミ・ワッツエマ・ストーンアンドレア・ライズブローエイミー・ライアン ほか

第87回アカデミー賞 (作品賞・監督賞・脚本賞・撮影賞)  受賞

 

 

 

出演者本人と役柄の一致が話題となっているこの作品に関しては、まず、そのキャスティングの絶妙さを書き出してみたい。

 

マイケル・キートン演じる主人公リーガンは、かつてバードマンというヒーロー映画で一世を風靡しながらも、その後のキャリアは思わしくなく、しかしここへきてブロードウェイの舞台に立つことにより、再起を図ろうとしている。かつてバットマンを演じたキートンの実人生と重なるといわれる役柄である。

 

主人公が舞台で共演する女優も、それを演じるナオミ・ワッツのイメージとだぶる。“ブロードウェイで女優になるの夢だった” という台詞があり、それが今ようやく叶う、というその状況が、下積みが長かったことで有名なワッツ自身と重なるし、ワッツがここまで飛躍するキッカケとなった作品「マルホランド・ドライブ」(2001年) で演じた役柄と重なりもする(女優を目指してハリウッドにやってくる女性の役柄だった)。そして、“金髪” のワッツと “黒髪” のアンドレア・ライズブロー、このふたりの楽屋でのシーンなど、もう「マルホランド・ドライブ」を念頭に置いているとしか思えないではないか。

 

エドワード・ノートンが演じた代役俳優の役柄も、ある意味、ノートン本人を思わせる、とも受け取れるのだが、これに関しては、キートン、ワッツとは少し違う。ノートン本人と役柄が重なっていると感じる部分というのが、以前からある、撮影現場(舞台裏)でのノートンはわりあいに嫌なやつだという噂と、今回の役柄の持つ横柄で皮肉屋な部分だからである。ただ、これに関しては、そうだと言い切る気はない。本人と役柄の重なる部分が、俳優としてのキャリアに関することであるキートンとワッツの場合は、(ふたりの過去の作品を知っている人ならば)誰が見ても明らかなことである。しかしノートンの場合の “撮影現場での態度” となると、観客にはその実態を知るすべもない以上、あくまでも噂でしかない。だからノートンに関しては、キートンやワッツのように実際のキャリアと役柄が一致しているというよりは、“映画ファンの間で比較的よく知られている噂のイメージをうまく利用した” と解釈しているのであるが (ノートンが、過去にハルクを演じたことがあるという点は、キートンおよびキートンが演じた主人公とだぶると言える)。

 

主人公リーガンの交際相手でもある、もうひとりの共演女優を演じたアンドレア・ライズブローの場合は、ライズブロー本人ではなく、この役柄の身の上に起こったことと、劇中劇の役柄とが重なっている、という構造である(リーガンとの間に子供ができた/できない と一悶着あったあと、舞台上で演技をしている劇中劇のシーンにおいて、子供ができなかった、というような台詞がある)。

 

リーガンの娘を演じたエマ・ストーンも、キートンノートン同様、過去にヒーロー映画に出演しており(アメイジングスパイダーマンシリーズのヒロイン)、なおかつその続編自体が白紙になってしまったという経緯がある (=アメイジングシリーズとしてもう1本の制作が予定されていたが、スパイダーマンそのものが、すべてを一新して仕切り直し、新たなシリーズとして制作されることとなり、アメイジングシリーズとしては事実上終了した / ただ、前作の展開からして、もし続編があったとしても、ストーンは出演しないのではと思われる)。ただ、このバードマン制作中といえば、アメイジングスパイダーマン続編が白紙となったことは(少なくとも一般には)まだ発表されていなかった訳であり、そこまで含めて本作や作中人物との一致であると受け取る必要は、ないとは思うのだが。

 

ハングオーバーシリーズで知られるザック・ガリフィアナキスだけは、本人のキャリアと役柄の一致どころか、むしろ出演者中もっとも新たなイメージの役柄を演じたといえる(ハングオーバーシリーズを見たことのある人なら、今回のプロデューサー役は、驚くほど違う印象に見えたであろう)。

 

 

そして、この映画そのものについて。

 

映画界=ハリウッドに対する批判 / 舞台の世界=ブロードウェイの風刺。有名俳優の実名をふんだんに取り入れた台詞でもってそれらを表現するこの作品で、もっとも大きな挑戦だと思ったのは、何より、監督が “壊した” ことである。これまでに内側(=監督自身)から積み上げてきた、あるいは外側(=観客の目)から積み上げられてきた、自らの作品のイメージを。

 

これまでの長編作品4本、中でも特に最初の3本は、ギレルモ・アリアガ脚本の特徴が強く出ていたという影響もあるだろうが、初めのうちは互いに関係なく進む、何組かの登場人物のエピソードが、最終的には交錯するようになっていたりという手法のものだった。ある種、それがイニャリトゥ監督作品の個性となっていたような面もあり、少なくとも長編に関しては、今回のようにストレートに進行する作品は意外、という印象に自ずとなる。

 

加えて、リーガンの “特殊能力” 的なものや、中盤、リーガンの頭の中/妄想がそのまま劇中における現実世界に流入したかのようなシーン( “飛ぶ” リーガンや、あり得ない狂騒)など、あのような表現は、珍しい手法ではないとはいえ、イニャリトゥ監督作品としては、これまで決して取られることのなかった方法である。

 

そして、これまでにない “軽み” を獲得したのではないか、と思っている。批判・風刺の強烈な本作では、様々な感情の渦巻く、人間の激しい内面を描こうとしてきたように思えたこれまでの作品とは、一線を画す軽みがある。それも、少々毒気のある軽みが(すっかり過去の人であると捉えられ、客の入りも心配されたリーガンの芝居のかかる劇場の向かいで、大ヒット作『オペラ座の怪人』が上演されている皮肉も含めて = それへの言及は一切なく、ただガラス扉に怪人のあの仮面が映り込んでいる / そして “仮面” のイメージは、怪人とバードマンとに重なるが、かたや大ヒット作品、かたや結果としてリーガンの足枷となっているものである)。

 

あくまでも自分の持っていた印象の話だが、これまでのイニャリトゥ監督作品を見てきて、まさかこのような方向へ舵を切るとは、思ってもみなかったのだ。

 

【これより以下、ラストの展開の詳細な内容に触れています】

 

 

 

終盤、リーガンは舞台上で拳銃自殺を図るも死に切れず、死に切れないなら無傷であるほうがよほどよかったのに、不運にも鼻が吹き飛んでしまう。その再建手術後、顔に巻いた包帯が、奇しくもバードマンの仮面のような形となっており、それを取って鏡を見ると、さらに手術後の鼻の形までもが、まるでバードマンの仮面の嘴部分のような形になってしまっているのだ。そう、これまでリーガンの楽屋の鏡に映り込み、頭の中に話しかけ、リーガンの現実にまで流入してきた、過去にリーガン自身が演じ、その影を振り払いたかったはずの、あの バードマンのように。最後の最後に、なんと痛々しく毒のある皮肉か、と思いながらスクリーンを見た。

 

窓外へと導かれるリーガン。席を外していた娘が戻ってきて、開いた窓に気づき、身を乗り出して下を見る。その直後、上空を見上げる娘の姿を見て、これまでのシーンでリーガンの頭の中を既に知っている観客の多くは、リーガンがバードマンとなって空を飛ぶ姿を想像するのかもしれない。そんなファンタジーもあるいはあってもいいのかもしれないが、これはそんな作品ではない、と自分は思っている。リーガンの体は、地面に叩きつけられていることだろう、そういう作品であると思っている(映画は娘の顔を映して終わり、リーガンの姿は映し出されない)。これまでにない軽みを獲得したのではないか、と先に書いたが、繰り返して言うが、それはこういう毒を持ったものだ。娘の視線はバードマンを追ったのではなく、もはやなすすべもなく天を仰いだはずだ。この作品にはそれが相応しいと、自分は思っている。なぜならこれは、“壊す” 映画だ、と思うからだ。監督はこれまで築き上げた作風とイメージを壊し、主人公リーガンは、再起を賭けた舞台の初日で死を選択=始まりの瞬間に自ら壊した。リーガンに終始つきまとった “過去” であるバードマンが、まるで死神のように思える。軽みと同時に、それだけの毒と皮肉を併せ持った映画なのだ。

 

しかしこの作品を、悲劇一辺倒だとは思わない。毒とともに、軽みがあるのだから。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は、この作品によってこれまでのイメージを壊し、映画監督として、自らにとっての新しい手法、“新しい映画” を手に入れた。それには、ワンカットに見える技を駆使し、計算し尽くされた “ワンカット風” 長回しで、観客に新たな視点を提供した撮影監督エマニュエル・ルベツキのカメラも、主人公の心情を音で語る、音楽アントニオ・サンチェスのドラムも、非常に大きな役割を果たしている。

 

窓から飛び降りたリーガンが、バードマンへと変化するファンタジックなラストを想像する観客も、もしかしたら大勢いるのかもしれない。それは自分の解釈とは違うものであるが、しかし、どちらでもいいのだろう。そもそも解釈とは自由なものであるし、そして観客がそう願うのは、つまりはこの作品がそう願わせた、ということだ。

 

 

眠れなかったのである、この作品を見た夜。明らかに脳が昂っていた。これまでの作品も作風も、じゅうぶん高く評価されてきた、にも関わらずそれらを自ら壊し、そしてまた新しいものを作り上げた監督のこの挑戦を、目の当たりにしたがゆえに。

 

 

 

2015/04/15 鑑賞