マノエル・ド・オリヴェイラ監督
4月2日、ポルトガルのマノエル・ド・オリヴェイラ監督が亡くなった。106歳。最後まで現役の映画監督だった。
初めて見た作品は、2001年制作の「家路」である。監督が93歳当時の作品だが、その時で既に、“現役世界最高齢” と言われていた。この「家路」日本公開の頃(2002年)、オリヴェイラ監督と そう 歳の変わらないビリー・ワイルダー監督が亡くなり、そのニュースを、とあるビルの屋上部分に設置されていた電光掲示で知った。歩道橋の上から見たのである。そのことがなぜかいまだに、オリヴェイラ作品として初めて見た「家路」公開・鑑賞に関する記憶と、結びついて思い出される。
昔の作品は、上映される機会も少なく、残念ながらほとんど見られなかったが、「家路」前後からそれ以降の、晩年の作品は、日本公開されたものはほぼ見に行った。その中で受けた印象といえば、商業主義への超然たる態度・独自の映画芸術観と、静かなる作品の中に、象徴的なシーンが必ず存在する、ということであった。もちろんこれは自分個人の受け取り方であって、見る人が違えば、また異なるであろうが。
ヨーロッパの監督の作品には、あるいはしばしば見られる特徴とも言えるであろうが、オリヴェイラ監督の作品にも、多くの人に受け入れられようとするが為に迎合する、というようなことが、一切感じられなかった。そして、例えば 17世紀フランスの小説を原作としながら、舞台を現代に置き換えた「クレーヴの奥方」(1999年) での試み (=舞台を現代とすること自体は珍しくないが、その翻案に見える、様々なものの対比) にあったような、独自性や意外性も、オリヴェイラ監督の作品を見る時には、感じることがあった。
そしてその中に、静かでありながらハッとするような、象徴的なシーンを発見する。
たとえば、「家路」(2001年) での、主人公である舞台俳優の劇中劇。 「永遠〈とわ〉の語らい」(2003年) での、フランス語・イタリア語・ギリシャ語・英語などの多言語で、なんの壁もなく会話が進むシーン。 「夜顔」(2006年) の主人公が、バーテンダーに向かって ひとり、語り続けるシーン。
これらはなにも、必ずしも、声高に何かを主張しようとしているシーンには見えない。しかしそんな静かなるシーンが、時として、作品のテーマを象徴しているかのように感じられ、そしてそれらこそが、オリヴェイラ作品と ほかの監督の作品との、決定的な差異を表していたかのように思える(これは、他の監督の作品との優劣について言っているのではない)。
そのような点で、マノエル・ド・オリヴェイラ監督の作品は特別だった。
監督は、昨年まで作品を発表していた(昨年発表された短編作品が日本でも公開されるかどうかは、現時点ではわからない)。100歳を迎えてもなお現役で現場に立ち、映画を作り続けることが出来たという事実は、もはや意思云々ということなど超えたところにおける意味でも、誰にでも なし得ることではないが、映画ファンがそこから受けた恩恵とは、これほどの長きに渡って、このマノエル・ド・オリヴェイラ監督の作品を、見ることができたということ。それこそが、何よりもっとも大きい。
2015/04/05