映画日記/記録

“Oh Captain, my Captain!” - 「いまを生きる」( Dead Poets Society / 1989 アメリカ / 監督:ピーター・ウィアー )

「アルマジロ」 フィクションとドキュメンタリーの境界線を考える

〈ドキュメンタリー〉

ARMADILLO

2010 デンマーク

監督・脚本:ヤヌス・メッツ

撮影:ラース・スクリー

 

2009年、アフガニスタン南部ヘルマンド州、最前線基地アルマジロ。この基地は、NATOが統率する国際治安支援部隊ISAF)のひとつであり、デンマーク兵、イギリス兵、計200名が駐留している。ここで、デンマーク軍の新兵たちに7ヶ月間密着したのが、この 〈ドキュメンタリー〉である。

 

■■■■■■■

 

死体処理をしたという兵士が、そのことを忘れられず、心のバランスを保つのが難しくなり、“場違いなところでゲラゲラ笑い出したりすることがある” と話す。よく、劇映画で、極度に追い詰められたり、異常な状況に追い込まれた登場人物が笑いだす、というようなシーンがあるが、果たして、そういう状況で本当に笑うような心理状態になるのだろうか、などと今までは思っていた。しかし、その兵士はそう言う。また、“この畑に もし地雷が埋まっていてもわからない、埋め放題だ、自分がそんな場所を歩いていると思っただけで吐きそうになる” と話す兵士もいる。常に警戒しているうちに誰も信じられなくなる、と話す兵士も。

 

このドキュメンタリー映画では、タリバン兵の死体が実際に映る(ぼかしが入るのは目元のみで、死体全体が映る)。“俺がやった” という兵士が、死体を調べ、その死体がどんな銃を所持していたかなどを確認する様子も映る。

 

パトロール、地元住民との会話、偵察機を飛ばす様子。そして、実際の戦闘。攻撃を受けて負傷する緊迫の瞬間。

 

激しい銃撃、戦闘のあと、無事だった兵士たちが “よくやった” と讃えあい、“こんな大決戦は見たことがない” と笑う。“ああいう実戦をまたやりたい”、と。過度の興奮状態。戦争中毒、という言葉が頭をよぎる。

 

■■■■■■■

 

たとえば、「プライベート・ライアン」や「ブラックホーク・ダウン」、「ハート・ロッカー」。公開当時、映画館で見たそれらの作品について、おそらく自分は、“リアルだ” などと、思ったり、口にしたりしたことであったろう。ではなぜ、リアルだと思うのか。本物の戦場など、一度も見たことがないのに、だ。たとえば、「プライベート・ライアン」。ノルマンディー上陸作戦の記録や実際の写真等を研究して制作されたという過程を、記事で読んだりするうち、“事実に沿って作られたものなのだ” と思うようになる。あるいは、これらの作品を見た時に、映像から恐怖感を感じ取り、また、戦場の恐怖を想像したりして、“現実味のある映像だ” などと思うようになる。

 

つまりは、何も知らない。ただ、〈映像〉を見て、〈そう思っている〉 だけだ。感じ取った恐怖は、実際に味わった恐怖とは違う。

 

そして今回、実際の戦争をおさめた、というドキュメンタリーを見て、いったいどう判断すればいいのかわからない、という気分に陥った。“これをリアルだと言いきれるのか?” と。なぜなら、〈映像を見ている〉 というその一点においては、劇映画もドキュメンタリーも同じだからだ。

 

たとえば、劇映画の登場人物はすべて台詞を話しているが、ではドキュメンタリーはすべてが事実であり、すべてがありのままか? きっと、自分がカメラで撮られていることを認識しながら話しているであろう。よく、“フィクションは所詮フィクションだから意味がない、ドキュメンタリーは事実だから重みがある”、というようなことを言う人がいるが、むしろ、“ドキュメンタリーに映っていることはすべてが事実” と断じることこそ危険だ。撮る側がどのような立場を取っているかということや、視点をどこに置くかによっても、撮り方は変わるはずだからだ。ドキュメンタリー映画にだって、脚本はあるのだから。それに、人間は、〈自分の見たいように見る〉 ということも、無意識のうちにしているはずだ。

 

たとえば、この「アルマジロ」がドキュメンタリーであるということを一切知らず、無名の若手俳優が演じている、と言われたら? ハリウッド大作と規模が違うだけで、これはフィクションだ、と言われたら? 容易くそれを信じるのではないか。結局、情報によるのだ、ドキュメンタリーだと言われればドキュメンタリーだと思うだろうし、フィクションだと言われればフィクションだと思うだろう。映像を見るということには、つまりそれほど曖昧な面があるのだ。だから、こんな映画を見ると、いったいどう判断すればいいのか、と、思考が滞る。

 

 

2013/3/3