「セントラルステーション」「ビハインド・ザ・サン」「モーターサイクル・ダイアリーズ」 ウォルター・サレス/南米の光と影。

ロードムービーには、現状とは違う世界を求めるからか、変わっていく景色に目を奪われるからか、見る者を何かしらかき立てるものがある。


ブラジルの監督、ウォルター・サレスのロードムービーには、現在に至るまで脈々と残る、中南米の厳しい現実もともに描きこまれている。


突然の事故で母親を亡くした少年と、ふとしたことで知り合った女性の旅を描く「セントラルステーション」。代筆屋の女性とともに、生き別れた父親を探す少年。最初は少年をうっとおしく思っていた女性にも、旅をともにするうちやがて気持ちに変化が起こる。


旅の最後、立ち寄った祭りの、屋台の電球の灯りが夜に映えるそのきらびやかさ。写真屋で模型の三日月に乗って撮った記念写真には、少年が目を輝かせた祭りの夜と、二人の旅のもっとも幸福な瞬間が残されている。この作品の、もっとも素晴しい一瞬が写しこまれている。


もう1本のウォルター・サレス作品「ビハインド・ザ・サン」。描かれるのは、ブラジルのとある地方で先祖の代から土地をめぐって敵対し、命を賭けた報復を代々繰り返すふたつの家族。子供の就学もままならず、農業で細々と暮らす中、長男が殺されれば、こんどは次男が相手の家長を殺すよう、父親から命じられる。


生きる糧を生み出すであろう土地というものが命と同じ重さで捉えられ、その土地で自分たちが暮らすためには殺し合いまでしなければならないというストーリーをもって描かれる、壮絶な人生。物にも食べ物にも恵まれた国や環境で暮らす者には想像もつかないその壮絶さとは対照的に、あるいはそれをより強調するかのように、滲んだ青が滴る空と、鈍く錆びついた褐色の土が目に沁みる鮮やかさをもって迫る、その風景の色。やがて報復を実行せねばならない次男が、その鮮やかな色の中でほんの一瞬、まだ見たことのないものを見、苦しい生活からの逃避を実現させた、偶然知り合った大道芸人親子とともに乗った馬車で始まる短い旅。 旅は、「土地」と「因習」に縛られた彼らの人生の、“反対側のさいはて” だ。


初めての隣り町、火を吹く大道芸人、その娘が軽やかにスカートを翻すブランコ。未知の体験に目を瞠り、大道芸人の娘と心を通わせる、それらすべてが彼の人生初めての“旅”。初めての安堵と安息、何にも縛られない瞬間を味わう、その一瞬。何のための人生なのか、それでもやってくる運命の日。


報復に報復を重ね、更に呼び込んだ報復が奪い去ったものは余りに大きく、とてつもない悲劇だ。旅は一瞬の白日夢、まるで苦しみしかそこに存在しないかのような人生。


滲む色彩と美しい映像で、国の状況による苦しい生活や悲しい因習が、様々な形で、過去より存在しているという事実を思い出させるストーリー(このストーリーそのままの因習が残っているとは限らないが)と、人生における“一瞬の旅”を描いたこの作品。その余りに美しい映像が、悲しみを増幅させる。



そして、革命家になる以前のチェ・ゲバラを描いた「モーターサイクル・ダイアリーズ」も、同じウォルター・サレス監督作品だ。友人とふたり、バイク1台で南米各地を旅し、やがてたどりついたハンセン病患者の療養所。


仕事を手伝い滞在した療養所を発つ前日に行われたゲバラの誕生会で、彼は最後に、皆の見つめる真ん中でスピーチする。その場にいる人すべてが胸を詰まらせているような、静かな高揚感を湛えた、なんとも言えない空気。そしてその直後、患者らに直接別れを言いたいと、川を挟んで隔てられた病棟まで泳いで渡ろうとする。職員らが必死で制止し、あるいはとても渡りきれないと呆然とする中で。


未開の熱帯雨林、画面から湿った空気まで伝わってきそうな夜の真っ暗闇。驚き感激する患者らに抱えられながら岸に上がったゲバラは、フラフラながらも満足そうで、ハンセン病への無知によって接触にはマスクや手袋着用が義務づけられていた当時でも、素手で握手し、友人同様に接し、信頼を得た映画の中のゲバラの人となりが集約されたかのようなこれらのシーンは、演技であることも忘れさせる程の独特の生々しさをもって観客に迫り、その空気で包み込む。水音も、まとわりつく暑さをもすべて画面に写しこみ、見る者の五感に疑似体験の感覚を起こさせる。そして、革命に身を投じてゆくチェ・ゲバラ


ウォルター・サレスのロードムービーはいつも、人生の光と影を観客に垣間見せる、そして語る。自身のアイデンティティが根ざす国を、そこに暮らす人々の苦闘や歓びの一瞬を、郷愁あるいは未知の風景を。上っ面の豊かさだけが、世界のすべてではないと。






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