「レオン〈完全版〉」 記憶の映画
LEON INTEGRAL VERSION
1994 フランス=アメリカ
監督・脚本:リュック・ベッソン
出演:ジャン・レノ
TOHOシネマズ〈BACK TO THE THEATER〉 5月上映作品
かつて、この映画は特別だった。
映画を見るようになり、映画というものの虜となっていった、その まだ早い時期、映画をたいして知りもせず、監督も俳優もそれほど知らず、現在のように数多くの映画を見ることもなく、その分、多少大袈裟な言い方をするなら、初めて見る1本1本が驚きだったとも言える、そんな時期に見た映画の1本が、この 「レオン」であった。
とにかく、特別だった。何度となく見た。ぜんぶ覚えてしまいそうなほど好きだった。あれ以来、見る機会はなかった。
あれ以来、見る機会のなかったこの映画を、こうして見るのは、いったい、何年ぶりのことか。
かつて、劇場版と完全版、その両方を、ふたつの映画館で見た。その映画館は、今はもうない。あとから公開された完全版を見た映画館は、ほかの映画も何本か見に行く機会はあったが、その後ほどなく閉館した。最初に劇場版を見た映画館は、近隣にシネコンが出来て以降も、ずいぶん長い間がんばっていたが、こちらも3年前に閉館した。今回「レオン」を見たのは、あの頃にはまだ存在しなかった映画館である。あの頃フィルム上映だったこの映画も、今ではデジタル上映だ。つまり、この映画を見るにあたってのすべての条件が、あの頃とは違う。
違うのはそれだけではない、自分自身とて違う。この映画を最後に見てから今日までというもの、その間のことすべてが、言うまでもなく、この映画を見ていた頃にはまだなかった時間である。まだなかった時間を生きてきた分だけ、あの頃とは違う人間である。
すべてが違う。変わらないのは、〈映画の中〉だけだ。人間も環境も、無情なまでに変化する。ときに、それは驚くべき残酷さである。
変わらないのは、〈映画の中〉だけだ。
こうして、この映画を見るのは、いったい何年ぶりのことか。懐かしい、余りの懐かしさに、胸が詰まる。苦しくなる。涙が出る。冒頭、林立するビルを海から臨み、タイトルが現れる。何年ぶりのことか。あの音楽。
あの頃、何度も何度も、繰り返し聞き、繰り返し見た。どのシーンも懐かしい。思い出せないシーンなどない。もちろん、常にこの映画のことばかり考えているわけではないのだ、ふだんは、記憶の底に沈んでいる。しかし、それは忘れたということとは違う。ひとたびスクリーンを前にすると、どのシーンもが、懐かしく思い出される。
アパートの中。正午の出来事。ジャケットの色。ホテルの質素な部屋。観葉植物。あの店。最後の瞬間。ケーブルカー。いくつもの台詞、‘‘死は突然訪れる”。どのシーンも忘れていない。余りにも懐かしくて、苦しくなる。
もう、映画館でしか、見たくなかったのだ。かつては、毎回映画館というわけにもいかず、当然、部屋で見たりもしている。しかし本来、映画は映画館で見るものだ(こういうことを言うと、「では映画館へ行けない状況にある人にはどうしろというのだ」と言われたりするが、そんな、重箱の隅をつつくような話はしたくない。行けない状況の人が、部屋で見る等、別の方法を選択するのは当たり前ではないか。そんなことではなく、本来の映画というものについて言っているのであり、映画館に行ける状況にあるならば自分は映画館へ行く、というだけの話である)。古い映画はDVDでじゅうぶん、とは思わない。映画を軽んじたくない。
人間も環境も自分も、すべてが変わる。あの頃の映画はあまりにも懐かしく、変化というものはあまりにも無情で、見る度こんな思いをするのは、見るたび胸が詰まるほど苦しいのは、それはあまりにつらい。変わらないのは、〈映画の中〉、そして、この映画が、自分にとって特別だということである。今でも、驚くほど特別だった。やはり、忘れられない映画だった。作品への一般的評価など関係ない。自分にとってだけの価値である。
もしまたこの映画を見ることがあれば、その時にも またきっと、懐かしさのあまり、胸の詰まるような思いをすることだろう。懐かしいと感じるのは、もう二度と戻らないからである。時間も、何もかもが戻らないからである。その苦しさを何度も味わうのは耐え難い。
映画には、見たその時の記憶が、必ずついてまわる。この映画をいつかもう一度見たら、きっと今日のことも思い出す。この映画に、これ以上、悲しい記憶を付け加えたくはない。悲しい記憶を付け加えないために、今後もう、この映画は見ないと決めた。このまましまっておきたい。
だから、これが最後だ。特別だからこそ。もう二度と見ない。もう二度と、この映画を見ることはない。
2014年5月18日
TOHOシネマズ西宮OS