映画日記/記録

“Oh Captain, my Captain!” - 「いまを生きる」( Dead Poets Society / 1989 アメリカ / 監督:ピーター・ウィアー )

「ゾディアック」 執着に翻弄される。

ZODIAC
2007 アメリカ
監督:デヴィッド・フィンチャー
出演:ジェイク・ギレンホール
    ロバート・ダウニーJr.
    マーク・ラファロ



60年代後半から70年代にかけてアメリカで実際に起こったゾディアック事件。


この映画では、事件そのものにとどまらず、この事件に捜査、報道などの形で深く関わったがためにその後の人生にまでも影響を及ぼした人々の、ある種この事件に魅了されてしまったかのごとく執着する姿も描かれている。


当初、ゾディアックと名乗る犯人の手による連続殺人だと思われていたものが、確証があるのは最初の2件だけで、あとの殺人は、犯行声明を出すことによって他人の犯罪を自分がやったと言っているだけではないか、という説を話し合うシーンが印象的だ。


ロバート・ダウニーJr.演じる記者がその説を口にすると、ジェイク・ギレンホール演じる漫画家は表情を曇らせ、記者から『なぜ失望するんだ』と言われる。“一連の殺人がゾディアックによる連続した犯行ではない可能性に失望”。たしかに妙な話だ。犯人が “思った程には犯行を重ねていなかった” ことに失望するなんて。


そんなシーンにも、“連続殺人犯の正体を明らかにしたい、捕まえたい”という以上の 事件に対する思い入れや、まるで事件にとりつかれ魅了されてゆくかのように執着し、深く没入してゆく様が垣間見られる。


いかにも出来る記者といった風情だったサンフランシスコ・クロニクル紙のポール・エイブリー(ロバート・ダウニーJr.)は、この事件の記事によって派手に名前を売った挙句にゾディアックから殺人予告を受けるに至り、酒や薬を手放せなくなった頃には見るからにげっそり、小さな地方紙に転職してボート暮らし。


事件の担当刑事トースキー(マーク・ラファロ)とその相棒は、殺人が起きたそれぞれの地域の管轄の警察との情報共有に悪戦苦闘し、かかりっきりになっても捜査は遅々として進まず、『絶対に黒だ』と確信した容疑者は証拠不十分。相棒は家庭を大事にしたいと転属し、トースキーも、何年間も費やしてきたこの事件にほとほと疲れ果ててしまう。


唯一、この事件に関わることによって、ある意味、水を得た魚のごとく生き生きとして、真相究明へと邁進するのが、クロニクル紙の漫画家、ロバート・グレイスミス(ジェイク・ギレンホール)だ。


パズル好きだったこともあってゾディアックの暗号を解き、この事件の本を執筆しようと決めてからは関係者を訪ね歩いて、相手が仕方なく折れるまで食い下がって情報をかき集め、真相に近づくがゆえに妻が家族の身を案じるようになり、2度目の結婚生活を危うくしてまでも真相に迫ろうとする。


犯人ではないかと思われる人物の名前を入手する頃には、『ゾディアックは2人いるのでは』という説に至るが、あまりに近づきすぎたのか、情報提供者だと思ってある男の家へ行くと、まるでこの男こそがゾディアックでは、と思える符合点がいくつも浮かびあがり、背筋も凍るような思いをする。


そんな思いまでして完成させたゾディアック事件の本は、のちに出版されベストセラーとなり、こうしてこの映画のもととなっている。


それぞれの人物が、事件に関わったことによって大きく人生の進路を変えている。出世できたはずが落ちぶれたエイブリーや、長年勤めた殺人課を追われることとなったトースキーだけではない。そもそも、事件の被害者、被害に遭いながらも助かった人、被害者の遺族らが、もっとも大きく人生を変えられてしまった人々だ。


グレイスミスだけは、事件に大きな影響を受けたのは確かだが、エイブリーやトースキーとは、明暗が分かれた形かもしれない。


事件に直接関係のある人々のみならず、その周囲にまで波紋を広げた。それ程の事件だったのだ。


映画の中にも、犯行声明や暗号が新聞に載り、センセーショナルな記事が書かれ、自分がゾディアックだと名乗る人物がテレビ番組に電話出演したり(結局それはゾディアックではなかったと判断される)、情報提供が多いあまり“容疑者はたったの2300人”と担当刑事が口にするなど、いかにこの事件が世間の耳目を集め社会現象と化していったか、どれほど情報が錯綜したかも描かれる。


このような殺人事件に、本来ならば憎むべき行為に、ある意味においてはたしかに“魅了されていた”と言える程の執着をみせた人々がこんなにいたのはなぜなのか。エイブリーやグレイスミスの執着は、明らかに“真相を究明して報道・出版に関わる人間としての役割を果たす”という域を越えているように見える。


何にそんなに惹かれるのか。もっとも犯してはならない罪を犯した人間の闇を、真っ暗で何も見えないかもしれない闇を、それでも確かめたいというのだろうか。理性があるがゆえに表に現れないだけで、本当は、もしかしたら自分も持っているかもしれない、その闇を。


この事件当時、監督デヴィッド・フィンチャーはちょうど小学生くらいだったそうだ。映画にもあった、スクールバスを襲うという犯行声明のために、パトカーが護衛するスクールバスに実際に乗っていた時期がある、とインタビューで話していた。子供の頃に社会現象となっていた事件を大人になってから映画監督として映画化するなんて、なんとハリウッド的な。


フィンチャーといえば思い出す「セブン」のような衝撃とは、「ゾディアック」は少し違う。「パニックルーム」みたいな“ワザ”を使った映像もない。もっと静かだ。もっと静かに、少しずつ少しずつ、人々が事件に絡めとられてゆく様を描く。事件よりも人の姿を描いている。


これは“ゾディアック事件の映画”ではない。“ゾディアック事件に関わり翻弄された人々の映画”、人を見据えた映画だ。


それにしても、劇中にも出てくるが、まさかイーストウッドの「ダーティハリー」がこのゾディアック事件をモデルに作られたものだったとは。


そしてもうひとつ意外だったのが、ゾディアックの名前と暗号。


ゾディアック事件というのが過去アメリカで実際に起こり、それが映画化される、と知った時、黄道十二宮を意味するゾディアックを名乗るなら、星や星座になぞらえて標的を選ぶとか、犯行の日時を選ぶとか、そういう犯人なのかと思っていた。しかし映画で見る限りでは、たしかに、暗号に一部占星術の記号が使われているという話だったり、グレイスミスが犯行日時と太陰暦を照らし合わせて調べたりするシーンがでてくるものの、どうも星はそれほど重要ではなかったようだ。“ゾディアック”という名に至っては、真犯人が捕まっていない以上断言はできないが、黄道十二宮に特別な意味を持たせて名乗った訳ではなく、時計メーカーの名前からとったという線がいちばん濃厚だという。声明文に使ったマークも、そのメーカーのロゴに酷似ときている。それらが、拍子抜けというのもおかしいが、少し意外だった。


犯人は結局捕まっていない。


トースキーらが犯人だと確信し、グレイスミス独自の調査でも浮上した、“限りなく黒に近い容疑者”は、数々の状況証拠がありながらも毎回証拠不十分となっていたが、カリフォルニア警察がようやく起訴にこぎつけようとした矢先に心臓発作で死亡。のちに行われたDNA鑑定でも、結果は不一致だったということだ。しかし、事件の本を執筆していることが世間に知られて以降、グレイスミスにかかっていた無言電話は、この男が死んでからはなくなったという。


カリフォルニア警察では捜査打ち切り、バレーホなど他の警察は今でも捜査継続中となってはいるものの、容疑者は死んだこの男一人だという。


事件は未解決。これほど材料のそろった男がいたのに、真犯人だと言うことができない。どうにも納得しがたい、なんと後味の悪い事件だろう。まるで、いつまでも晴れないもやがかかったみたいに。


事件を追うにつれて深みにはまり、酒と薬が手放せなくなって身を持ち崩す記者を演じたのがあのロバート・ダウニーJr.というのが、またなんともいえない(ものすごく素敵な声だったけれど)。







08.6.17