映画日記/記録

“Oh Captain, my Captain!” - 「いまを生きる」( Dead Poets Society / 1989 アメリカ / 監督:ピーター・ウィアー )

「ホドロフスキーのDUNE」

〈ドキュメンタリー〉

Jodorowsky's Dune

2013 アメリカ

監督:フランク・パヴィッチ

出演:アレハンドロ・ホドロフスキー、ミシェル・セドゥー、H.R.ギーガー、クリス・フォス、ニコラス・ウィンディング・レフン ほか

 

“世界を照らすものは 己の身を焼かねばならない” というヴィクトール・E・フランクルの言葉で始まるドキュメンタリー、「ホドロフスキーのDUNE」。

 

1962年〜前衛演劇を10年演出、1967年 組合を無視して 長編初監督作「ファンド・アンド・リス」を撮って騒ぎに。ホドロフスキーは言う、“芸術の創造に許可がいるか”。1970年〜 「エル・トポ」等、いわゆるミッドナイトムービーの成功により「ホーリー・マウンテン」制作(100万ドル出資された)。

 

プロデューサーであるミシェル・セドゥーから、フランスで一緒に映画を作らないか、何を作ってもいいと言われたホドロフスキーは、その原作としてフランク・ハーバートの小説「DUNE」を選び、ホドロフスキー本人が脚本を書いた。企画したのは「スター・ウォーズ」の2年前、1975年だという。バンドデシネのブルーベリー(西部劇)を読んで、メビウスを選んだ。“メビウスは私のカメラだ”、“彼の絵で映画を作った”。さらに、ジョン・カーペンターの映画でダン・オバノンの特撮を見て、彼だ、と決める。

 

ホドロフスキー:“大事なのは芸術だ、技術はその次だ”

 

音楽にピンクフロイド、出演者としてデヴィッド・キャラダイン、そして「エル・トポ」の当時で7歳、この時で12歳だった息子にも出演の準備をさせる。

 

“人々の意識を変えるような映画は、神聖な使命として 自分を犠牲にする必要がある。命を捧げる覚悟だった” とホドロフスキー。“なぜ息子を犠牲にしたのかと自分でも思う。しかしこの映画を作るのに腕を切る必要があったなら、当時の私なら喜んで腕を切っただろう” とも。

 

さらに、SF小説の表紙を見て画家クリス・フォスを知る。この時ホドロフスキー46歳。

 

そして、シュルレアリスムの画家ダリに出演交渉。銀河帝国の皇帝役に、と口説く。タロットの本の “吊られた男” のページを切り取って、君と話したい、映画を作りたい、と誘ったという。のちに、レストランでの食事中にダリはこう言ったという、曰く “若い頃、ピカソと一緒に海辺へ行った。車のドアを開けるといつも砂の中に時計を見つけた。君は砂の中に時計を見つけることができるか?” と。ホドロフスキーは言う、“すぐ答えなければ まずい、しかし いつも見つけると言えば 見栄っ張りで馬鹿な男だと思われるし、見つけないと言えば退屈な男だと思われる。すると突然思いつき、こう答えたんだ。見つけたことはない、しかしたくさん失くした、と” 。“よし、バルセロナで会おう” と、ダリは映画出演を快諾したという(しかしその後ギャラの話がうまくまとまらなかったというオマケつき)。

 

H.R.ギーガーの画集をホドロフスキーに見せたのはダリだという。ウォーホルの映画に出ていたウド・キアも出演承諾。ハルコンネン男爵役にオーソン・ウェルズを誘ったら、もう映画には出たくない、と言われたという。

 

その後も制作準備は難航。ハリウッドが考えるSFとは違いすぎて、どの映画会社でも、監督がホドロフスキーではダメだとか、長すぎるから1時間半にしろと言われたりしたという。とにかく、資金を出す会社がない。

 

ホドロフスキー:“このシステムは私たちを奴隷にする。ポケットの中の恐ろしい悪魔のせいだ、この金のために。この中には何もない、ただの紙切れだ。しかし映画には心がある、精神がある”

 

資金が集まらないうちに、有名プロデューサーであるディノ・デ・ラウレンティスの娘が私たちから企画を奪ってデヴィッド・リンチに渡した、というのはギーガーの弁である(D・リンチ監督作「デューン/砂の惑星」のことを指す)。そのことについてホドロフスキーは “ショックだった、なぜなら、彼は この映画を作ることのできる才能のある、唯一の監督だ”。

 

“私の映画をほかの監督が作るなんて、見る気もしなかったが、息子に言われて見に行った。始まった時は今にも泣き出しそうになったが、見ているうちに元気が出てきた。なぜなら、映画があまりにも ひどかったからだ。おとなげないかもしれないが、私はそう思った。そして、才能あるリンチがあんな駄作を作るはずがない、これは(向こうの)プロデューサーのせいだ、と思った” とホドロフスキー。そしてミシェル・セドゥーは、企画を奪われる形となり、つらい思いをした「デューン/砂の惑星」を、一生見るつもりはないと語る。

 

しかし、各大手映画会社に持ち込まれていたホドロフスキーによる「DUNE」の絵コンテは、ハリウッドに影響を与えたという(あの「スター・ウォーズ」にも、ということだが)。というのも、のちに制作された多くの映画の中に、この絵コンテに似たシーンのあるものが、非常に多いのだという。そして のちに、H.R.ギーガーが「エイリアン」のデザインを担当するなど、ホドロフスキーと一緒に映画を作ろうとした画家や作家らが、他の映画で才能を発揮してゆくこととなる。

 

ホドロフスキー:“誰かが この脚本で映画を作ればいい”、“私が死んでも映画は作れる”

 

「DUNE」を実現できなかったホドロフスキーとセドゥーは、別々の道へ。そして35年後、また一緒に映画を作ろうと決めた。それが「リアリティのダンス」である。

 

〈ここまで、鑑賞時のメモをもとにしたドキュメンタリーの内容の大まかな記録

 

 

アレハンドロ・ホドロフスキー監督作品といえば、「エル・トポ」は以前見た。「サンタ・サングレ/聖なる血」は、気になってはいたが見てはいない。ほかは今のところ見ていない。作品に関しては、そういう感じである。

 

ホドロフスキー監督が話す様子に関しては、この「ホドロフスキーのDUNE」の中でも触れられている “ミッドナイトムービー” なるもの、それについてのドキュメンタリー映画において、インタビューを受ける様子を過去に1度見ている。その当時は、「エル・トポ」など作品はまだ見ておらず、ホドロフスキー監督のことは知らなかった。

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そして今回、久しぶりに、監督の作品ではなく、監督本人が話す様子を見。「DUNE」が制作され得ずに幻の映画となりゆく顛末を、おもに監督の口から語られる形で聞き、思った。思った、というのは、これは個人の感覚であり、まったく違う捉え方をする人がいるだろうことももちろんわかっているし、ただ自分はこう思った、というだけのことで、あくまでもひとつの捉え方である、という前提である。なおかつ、この監督の作品そのものには、面白い・美しいと思う部分もある反面、自分には ついていけない部分もかなりあったがゆえ、このように思うのかもしれないが。

7:3ぐらいで、ホドロフスキー監督自身の話術のほうが、作った映画より面白いのではないか、と。そう思ったのである。

監督の話しぶりは、受け取る側によって、大言壮語に聞こえる場合もあるだろうし、へたをすれば うさんくさいとも受け取られかねないほど、例えが大きすぎることもある。しかしおそらく、大袈裟なほどの その感情表現に親しみを覚え、その熱い語りに心動かされる人もまた、多いのではないか。

実現し得なかった「DUNE」制作に関し、かつてあれだけの面々が名を連ねたのは、あの話術で、“ホドロフスキーと一緒に仕事をしたい” と、相手を酔わせたからこそではないだろうか、と思われたのだ。このドキュメンタリーを見ていての監督の話しぶりは、それほどの人間的魅力を感じさせるものだったのである。

監督自身には、話術で人をどうこうしようというつもりは別になくて、“とにかく映画を作りたいんだ!” と思っている、ように見えた。 しかしだからこそ、監督と関わった人々の多くが、その熱意に動かされたように感じられる。 つまりそれだけ、人をひきつける語り口だったのだ。

ちなみに、語られた顛末の中で特に興味深かったのは、ダリに関するエピソードと、デヴィッド・リンチ監督の「デューン/砂の惑星」を見た際の話。それも、後者について話す監督の、泣き出しそうになったというところでは肩を落として泣きまねをし、出来がよくなくて見ているうちにだんだん嬉しくなった、というところでは徐々にたかまる感情を笑顔と身振りで再現し、そうやって感情表現豊かに話す様が、ことのほか面白かった。

 2014/7/8