〈黒澤明映画祭〉 元 黒澤プロダクション 野上照代氏トークショー(11/22「七人の侍」上映終了後)

七人の侍」誕生60周年記念

黒澤明映画祭〉

2014年10月25日〜12月19日

シネ・ヌーヴォ(大阪市西区九条)

七人の侍上映終了後

黒澤プロダクション野上照代氏トークショー

 

聞きながらその場で取ったメモを元に記録。場合によっては 間違いも絶対ないとは言いきれないが、そこは、なにしろ話すスピードに対しての手書きゆえ、どうかご容赦を。メモしきれず記憶もあやふやになってしまったことについては割愛。メモを取るのが間に合ったもののみ記録。

 

 

-観客の拍手で幕を閉じた「七人の侍」上映-

 

七人の侍」終了後すぐ、シネ・ヌーヴォ代表・景山さんの “客席がいっぱいっていいもんですね、少ない日が続いておりまして、今日は感激でございます” という挨拶で始まる。

 

野上照代さん登壇:

シネ・ヌーヴォは景山さんもスタッフも素晴らしい、東京でこんなのない、東京では考えられない、どうしてやらないのかしら” と第一声。

羅生門」当時 黒澤明監督40歳、野上さん23歳。以降、最後まで一緒に仕事をしたという(野上さんは記録等を担当)。

 

◇「白痴」の評判が悪く、ダメだと思っていた時に、「羅生門」がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞(最高賞)を受賞。しかしまさか受賞するとは誰も思っておらず、関係者の誰ひとりとして出席していなかった。結局、日本人、いなければアジア人なら誰でもいいから、と サンマルコ広場から ひっぱってきた人に、代わりに出席してもらった(映画祭では、その人が黒澤監督だと思われてしまった)。一方、監督本人は失業状態で、川で釣りをしていた。

東宝争議によって東宝を離れていた黒澤監督は、戻れと言われ、東宝で 「生きる」までの海外版を作った(全部が同時録音だった当時、セリフだけを抜くことはできず、音楽のみ早坂文雄さんと録ったという。効果音は向こうで作り、セリフは吹替え。注文が殺到した、とのこと)。

◇54年にクランクインした「七人の侍」撮影は、1年かかった。ほとんど東宝(現在は団地になっているという)の周りで撮った。ハリウッドの西部劇にもないものだから雨の合戦シーンを撮りたかった、という。

◇その撮影場所は、もともと田んぼだった場所。足が抜けないほどのぬかるみで、乾くのにも時間がかかり、天気が良くなった日に撮るはずだったシーンも撮れず、期間が倍ほどに延びた。消防車を8台置いて、朝から晩まで雨のシーンの撮影。木村功さんの泣くシーンで最後だったが、黒澤監督がカットをかけてもなかなか泣きやまなかった、本当に泣いていた。そのぐらい過酷な撮影だった。

◇撮影は8月に終わるはずが、結局翌年2月に。わらじを履き、ほとんど裸に近い格好だった三船敏郎さんが、特に大変だった(三船さんは我慢強い人だから あんな撮影もできたけれど… と野上さん)。宮口精二さんが撃たれて死ぬシーンで、一度かつらが飛んだことなどもあった。出演者らが、着物の泥を落とすためのお湯が暖かくて嬉しかった、と言っていた。

◇ヌーヴォ代表・景山さんが、「七人の侍」の雨のシーンに使われる水に墨汁を入れたのかと訊くと、“あなたは知りすぎた男なのよ” と野上さん。水に墨汁を混ぜて雨のシーンを撮ったのは「羅生門」で、それも、降ってくる雨を 見上げる形で撮る時のみ(白黒映画ゆえ、水に色をつけないことには、見上げた状態の白い空から 降ってくる雨が透明だと、ほとんどわからないから)、と野上さん。

◇「七人の侍」の制作費は当時の2億円、一般的な予算の7本分。東宝首脳部は、辞職願を懐に入れながら “なんとか上げてくれ” と言っていた。そこで黒澤監督は、試写の際、うまく編集して、三船さんが屋根の上で “来やがった、来やがった” と言うシーンまでしか上映せず、続きはこれから撮ります、と言ったという。見る側にとって もっとも続きの気になる部分で切られた試写を見た、当初は打ち切れとすら言っていたはずの東宝首脳部から、これによって撮影続行のOKが出たという。

◇撮影が延びたおもな理由は、とにかく天気。あんな仕事は頼まれてももう二度とできない、と監督は言っていたという。

◇野上さんが、体力的にもっともつらかったのは、「七人の侍」と「デルス・ウザーラ」だったという。「デルス・ウザーラ」は、黒澤監督が「トラ・トラ・トラ!」で監督をクビになり 後には退けない状態の中で、シベリアで8ヶ月かけて撮った。

◇「七人の侍」はやはり何台ものカメラで撮ったのかと景山さんが訊くと、基本的には1台だったとのこと。シーンによって2〜3台、火事のシーンだけ8台だった、と。そして「七人の侍」で複数のカメラを使った経験から、「生きものの記録」も複数カメラで撮った(手前も後ろもピントがあっている、と景山さんが言うと、パンフォーカスだからライトが多い、と野上さん)。

◇例えば「羅生門」で、志村喬さんが歩いているシーンは、上に金網を張って 葉っぱを乗せるなどのことを、照明係がやっていた。黒澤監督の映像で、自然にただ撮っただけのものはない、すべてそのシーンのために作っている、と野上さん。

◇一般的に、撮影前に絵コンテを作るのに対し、黒澤監督は、編集の時に膨大なフィルムの中から選び出す形だった。そして編集が非常に速く、人を寄せつけなかった。“僕は編集の材料を撮影するんだ”  と言っていたという。たいていは先に考えてから撮るものだが、黒澤監督は、あらゆる角度から撮ったものの中から選ぶ、と(野上さん曰く、贅沢な作り方だった、と)。

 

ヌーヴォ代表・景山さんにより、ここで、観客から野上さんへの質問を受け付ける、という運びに:

-野上さんが個人的に好きな作品は?

-本当にみんな好きだから、そう訊かれると困る。とにかくいちばん大変だったのは、「七人の侍」と「デルス・ウザーラ」。

-かつて熊井啓監督がキネマ旬報に書いていたが、「白痴」4時間26分版は本当にあるのか?

-「白痴」は「七人の侍」より前で、私はまだ一緒に仕事していなかった頃のものだから答えにくい。みんなが探している。長いと回転が悪いからと、会社から やめさせられた。長い方はいまだに見つからない。謎。

景山さん曰く、シネ・ヌーヴォからも松竹に訊いたが ないと言われた、とのこと。あったとしても、松竹がOKしない限り上映権が… 松竹も商売だから、と景山さん。ちなみに、松竹の社長の家にあるんじゃないか、という噂があるとかないとか。

 

◇野上さんの著書について訊く景山さん。本にも書いているが、とにかく「生きものの記録」をぜひ見直してほしい、と野上さん。

◇映画音楽について : 昔は録音も、スクリーンに画をかけてからフルオーケストラ、間違えたら始めからやり直しで大変だった。黒澤監督の初期の映画音楽を担当していた早坂文雄さんは、憧れの的だった、と野上さん。黒澤監督は、“アメリカの映画音楽のように、画に沿って音楽をつけるのはつまらない、逆だからこそ効果がある、それは早坂しかできない”  “純粋な音楽とは違う、画と掛け算で別のものができる。それが映画音楽だ” と言っていた、と。早坂さんが亡くなった時には、黒澤監督はショックのあまり泣いて泣いて、1週間仕事ができなかったという。

 

千秋実さん、三船敏郎さん、志村喬さんらの話が聞きたいと景山さんから言われた野上さんは、“「生きる」のお通夜のシーンに並んでた人みんな死んじゃった” と。“いい役者が多かった” とも。“「羅生門」の出演者も全部死んじゃって… 生き残ってるのは京マチ子さん(※電話で話す間柄らしい)と、映画の中で泣いていた赤ん坊だけ” と。

 

ヌーヴォ代表・景山さんからの質問:

-「七人の侍」の旗がざわめくシーンは脚本段階から?

-黒澤監督が 旗を好きなのは たしかで、劇中でよく使っている、と野上さん。

 

黒澤監督に師事していた小泉堯史監督作品「蜩ノ記」制作にも協力したという野上さん。このとき岡田准一さんと初めて話したが、真面目な青年だった、と。

「影武者」以降、黒澤作品で助監督をつとめた本多猪四郎さんの現場でのエピソードとしては、かつて兵役についていた本多さんを気遣った黒澤監督が、「夢」の軍隊のシーンは本多くんにまかすよ、と言っていたとのこと。

また、野上さんはツァイ・ミンリャン監督とも交流があるという。「郊遊 ピクニック」のラストが長すぎると笑っていた。


 

 

2014年11月22日