〈黒澤明映画祭〉特別上映作品 『わが映画人生』

七人の侍」誕生60周年記念

黒澤明映画祭〉

2014年10月25日〜12月19日

シネ・ヌーヴォ(大阪市西区九条)

全作品30本上映/35ミリプリント フィルム上映(監督インタビューのみDVD上映)

特別上映 『わが映画人生』

1993年8月1日収録

日本映画監督協会制作、監督が監督にインタビューする記録映像シリーズの一編

DVD上映/117分

11月2日、〈黒澤明映画祭〉における特別上映(期間中1回のみの上映)の監督インタビューを鑑賞。

以下、見ながら取ったメモを元に記録。なにぶん上映中ゆえ、暗い中でろくに手元も見ないまま取ったメモであり、なおかつ、話すスピードに追いつくのもなかなかに大変で、よって、監督の発言全てを忠実に再現とはいかないが、見たその場で記録してきた内容であるし、そのへんはご容赦願いたい。

メモしきれず記憶もあやふやになってしまったことについては、間違って伝えることになる場合があるので割愛。メモを取るのが間に合ったもののみ記録。基本的には要約で、あまり細かいエピソード等は省略しつつ書いているが、できるだけ黒澤監督の使った言葉で残したつもりではある(すべてを完全に、というのは上記のような理由により無理だが)。

聞き手は大島渚監督。

 

映画界に入る前のことから始まる:

父が軍人(映画を禁じることなく、たくさん見ろ、と言ってくれていたらしい)だった。兵役検査の場に父を知る人がいて、体が弱そうだと言われ、兵役を免れることが出来た。絵が好きで、画家を目指した当時の話、兄の自殺により、自分が黒澤家の当主とならなければならず、何かしなければいけないと思ったことなど。

 

映画の世界に入って以降の、助監督時代の話など。

 

戦時中の検閲について:

(大島監督の質問:いちばん最初の監督作品に「姿三四郎」を選んだのはなぜか)検閲で3本ほどだめで、「姿三四郎」でやっとOKがでた。5時間待たされてもお茶の1杯も出ないし、ラブシーンが英米的でよくないなどと言われたこともあった。自分がどこへ行ってもケンカしてくるものだから、戦後、GHQによって検閲が廃止されたあと、こうなったら思いっきりケンカしてこいと言われ、元検閲官に、言いたいことを思い切り言った。

 

※ 当時の映画関係者であるとかの名前も幾人か出てきたが、かなり昔のことで わからないので、そのへんの記録はなし

 

「白痴」について:

赤字になったが勉強になった作品だった。ものすごい高みに達しているドストエフスキーの作品を映画化するというのは本当に大変で、なんでこんなのやろうと思っちゃったんだろう、と思ったこともある。

せっちゃん(原節子)に「あなた本当はいい人なのよ」という台詞があり、それを “黒澤さん、私どういう顔して演じたらいい?” と訊かれ、慌てて原作を読み返すと、にやりとした、と書いてある。現場でそのようにして撮ると、森くん(森雅之)がびっくりして、“黒澤さん、今のはすごい演出だ!” としきりに言っていたが、森くん、それは俺がすごんじゃないよ、ドストエフスキーがすごいんだよ、と思った。

 

脚本の重要性について:

(共同で多くの脚本を書いた小國英雄氏を非常に高く評価していた黒澤監督)これだ!というアイディアがなかなか出ず、いったいどうしたらいいのか、とみんなが悩んでいるところで、いつも、それを突破するようなことを思いつくのが小國だった。

 

映画は “世界の広場” のようなもの。いろんな国の映画を見て、こんなこと考えてるのか と知ったり、泣いたり笑ったりする。

本当は、政治がもっと映画を大事にしなきゃいけない。映画を作ってると、外国だともっと大事にされますね。外国に行くとVIPだけど、日本だと乞食だ(※ 黒澤監督が使った言葉のまま表記/大島監督は「そんなことは…」と笑って、そのあと「いやまあそうですね」と苦笑い)。

 

自分のプロダクションを作るとき、いちばん難しいものをやろう、と思って「悪い奴ほどよく眠る」を作った。お金もかかった。日本のプロデューサーシステムは本物じゃない、金は出さないけど口は出す。向こうのプロデューサーだと熱心で、自分のお金も出す。日本では、会社に映画を撮らせてもらってる、と思ってるがそうじゃない、会社もそれで儲けてるんだから。契約をちゃんとしないといけない。当時は著作権の弁護士もいなくて大変だった。

 

俺は本当は仕事が早いんだけど、準備を徹底的にするから、時間をかけて作っていると思われる。

1週間か10日のはずが、100日かかったことがあった(驚く大島監督/※「乱」か「影武者」についての話だったが、どちらのことだったかは残念ながら失念)。3回も台風がきて撮れなかった、でも会社のある東京は晴れてるし御殿場も晴れてるから、よくわかってもらえなくて、会社から人が来ていろいろ言われるんだよ、撮影現場は台風だったのに。

 

「夢」にある16分間のシーンが、リハーサルをしている時は20分くらいかかっていた。それが、リハーサルするうちに早くなっていく。そして現場で撮る時には凝縮されて短くなっている。そういうものだと思う。成瀬さん(成瀬巳喜男監督)の映画もそうだと思うが、凝縮されている。

 

映画音楽について:

早坂(作曲家 早坂文雄)は、映画音楽の仕事があるとそればっかりになって、ほかの仕事を全部捨ててしまうような男だった。本当は、早坂ともっと一緒に仕事したかった(1955年「生きものの記録」が早坂氏遺作)。

 

音楽をシーンの長さにぴたりと合わせなければいけないという、映画音楽の独特な部分についての話の途中に出た、黒澤監督の言葉:

“映画も 音楽も、時間の芸術”

 

映画制作を目指す若い人に対して何かアドバイスを、と言われ:

映画を撮りたい、と言って私のところに来る若い人は多い。そういう時は、まず脚本を書いてみろ、と言います。それなら、わら半紙と鉛筆さえあればできる。

しかし、それが皆なかなかできない。どんなものでもいい、最後まで書け、絶対に投げ出すな、と言う。一度でも投げ出すと、つらいときに投げ出すくせがついてしまう。だから、どんなに苦しくても、どんなものでもいいから最後まで書け、と言う。登山の時、頂上ばかり見て登るのではなく、足元を見て一歩一歩登るのと同じこと。ひと文字ひと文字書いていく、それは確かにしんどい作業だが、しかしそれをしなくちゃならない。

それには、本を読むことも大事。なのに、最近の若い人は読まない。何も読まずに(発想が)出てくるはずがない。何か読むなり、自分の経験なり、そういうものがあるからこそ、それを元に、想像することができるのに。つまり、“想像とは記憶である” ということ。何もないところから出てくるはずもない。成瀬さんが、いつも紙と鉛筆を持っていて、何か思いつくたびに書いていた。ちょっと読ませて下さいよ、と言ってみたことがある。すると、誰々と誰々がいて、“部屋で” “何かする”  というようなことしか書いていない。これは笑い話みたいなものだけど、成瀬さんの頭の中ではわかってるから、成瀬さんにはそれでいいんですよ。それであのすごい本ができてしまう。

 

日本には、すごい映画ばかりが出てきた時代が何十年かあり、それはどんな国にもなかった状態で、そんなことが可能だったのは何故だと思うかを(海外の映画関係者から)話してくれ、と言われたことがある。答えは簡単で、監督が撮りたいものを、監督に好きに撮らせていたから。昔はプロデューサーなんていなかった。成瀬さんなんか(制作)数が多いから、中には会社が撮れと言ったものを撮ったのもあるかもしれないけれど、それもおそらく少数だと思う。溝口さん(溝口健二監督)や小津さん(小津安二郎監督)も、撮りたいものを撮っていたはず。だからあれだけのものができた。そう話したらびっくりされたけど、本当にそうなんですよ。

2014年11月2日/シネ・ヌーヴォにて上映