「ブルー・リベンジ」 復讐に浮かび上がる心理

Blue Ruin

2013 アメリカ=フランス

監督・脚本・撮影:ジェレミー・ソルニエ

出演:メイコン・ブレア、デヴィン・ラトレイ、エイミー・ハーグリーヴス、ケヴィン・コラック、イヴ・プラム、デヴィッド・W・トンプソン

第66回カンヌ国際映画祭 監督週間出品 / 国際批評家連盟賞 受賞

 

 

ひとりの男の、復讐譚である。

両親を殺されたことによって、人生が一変した。人生のすべてが壊れた。生き残った姉や、人との関わりもすべて断ち、ホームレスとなるしかなかった。ある時、その犯人が司法取引によって、刑期を終える前に出所することを知る。復讐への激しい衝動に貫かれる。

この作品の主人公ドワイトは、たとえば、アクション映画の主人公のような男では、決してない。ひとことで言うなら、まさに “虫も殺せないような” 男である。特別な人間ではない。つまり、多くの人々と、なにも変わらない。多くの人々となにも変わらないような男が、自分の人生を奪った者への復讐に、すべてを注ぎ込むのである。心も残された時間も、すべて。復讐を果たし、晴れて新しい人生を送ろう、などとは考えてもいない。ドワイトにとっては、復讐こそが終着である。

 

この作品を見終え、なおも残るのは、思い出すのは、復讐するほかに道のなかった人間の、その心理である。この作品のもっとも優れた点は、何よりその心理描写にある。

 

主人公ドワイトの台詞は、非常に少ない。台詞ではほとんど語らない。しかしその行動の中に、心情が見える。要領が悪く、失敗を繰り返してばかりのその行動の中に、激しい復讐心そのもの、そして、復讐心を持ちながらも拭い去ることのできない恐怖や不安、怯えが。

また、台詞の少なさに加え、感情を表に出さない人物として描かれているがゆえに、抑えていた感情を発露させるシーンが、よりいっそう印象的になる。たとえば、何年ぶりかで再会した姉と、犯人出所について話すシーン。会話の中で、その出所について “ニュースになると思ってたのに” と言ったドワイトはその瞬間、ひとすじの涙を流す。残された者にとっては人生を狂わされた殺人事件であっても、世間には忘れられた過去となっていることの無情。人に感情を見せないドワイトが流した涙は、それだけで多くを語る。

そして、なぜ復讐するのかを吐露した言葉だ。行く末は見えている。それなのになぜ、復讐するのか。 “復讐をやめる理由なら、いくらでも思いついた でも、復讐をやめない理由はひとつしかない”。

 

特別な人間ではない、多くの人々となにも変わらない人物であるドワイトの、恐怖や不安、要領の悪さや失敗は、共感を呼び起こして余りある。 “復讐への共感” という以上に、決してヒーローではない、“自分と同じ側にいる人間 ドワイトへの共感” を、いやがおうにも呼び起こすのである。

 

この作品は、映像もまた、ドワイトの心情に寄り添う。青みを帯びた冒頭から、変化してゆく風景と色が、その心情に重なるのである。

 

 

制作時点では無名の監督であったゆえ、とにかく非常に限られた制作費であったという本作。にも関わらず、そのことに縛られるどころか、その限られた条件を生かしているところもまた、見事である。

特に印象的なことのひとつは、主人公の過去がこの作品にとって重要な要素であるにも関わらず、回想シーンが一切ない、ということだ。ドワイトの過去は、ストーリーの進行につれて次第に明かされてゆくが、予算のなさゆえにそうしたのか、それとももし予算があったとしても最初からそういう描き方をするつもりだったのかどうかに興味がわくけれども、とにかく、回想シーンがない。そしてそれがとても効果的に感じられるのである。ストーリーの中に自然に織り込まれているのだ、ドワイトがいかに過酷な目に遭ってきたのかということ、両親殺害がいかに凄惨な形での事件であったかということが。それが、他の登場人物の反応を通して描かれていたりする。

たとえば、犯人出所を知らせた警官は、危険だからしばらく警察署で過ごせるように手配すると言って、ホームレスであるドワイトをずいぶんと気遣う。また、ドワイトが自らその関わりを絶って以来、復讐を決意したがゆえにようやく再会する運びとなった姉や友人が、ドワイトに復讐を思いとどまらせようとするどころか、賛同、あるいは協力する。姉はまだしも、何年も音信不通だった友人など、復讐に加担して得することはなにもない。むしろ立場が危うくなるだけだ。そんな、本来なら関わりあいになりたくないようなことに、まったく得をしない人物が協力するという構図は、その人物から見て、ドワイトがいかに同情すべき過去を背負っているかということを物語っている。このようなシーンがいくつも、丁寧に積み重ねられることによって、回想シーンを一切入れないながらもドワイトの過去を見せ、それによって、背景が深みを増すのである。

 

ラストシーンでは、どこかヒヤリと冷たい虚しさのようなものを感じた。これは、この監督の冷静・冷徹な視点による描写ゆえに、感じられたものなのかもしれない。そして、ドワイトという主人公を通してこの監督が描いた心理を、理解できる、と感じる。過去というものに呪われ続けたこと、ほかの方法を選べなかったこと、たとえ復讐を遂げたとしてももう戻れないとわかっていたこと。どのシーンの恐怖も不安も、理解できる。理解、あるいは共感というものは、まったく同じ立場に置かれていなければできない、というものではない。フィクションへの共感というものは、たとえ立場が違おうとも、その登場人物を通して描かれる心理や状況などの細部、あるいはそのほかのものに、たった一瞬心打たれただけでも起こり得る感覚であったりする。同じ立場に置かれていなければ共感は起こらないなどという、そんな単純なものではないはずだ。もっと複雑な感情から起こってくるものだ。だから自分は、この主人公に共感し、この復讐を理解できる、と感じる。

 

 

先にも書いたが、監督には何年かのキャリアはありつつも無名だったがゆえに、制作費が非常に限られた状態だった本作。関連記事で読んだところによると、監督は、この作品で認められなければ映画の道を諦めよう、つまり、これが最後の作品というつもりで臨んだのだという。しかし、この作品が2013年の第66回カンヌ国際映画祭の監督週間に出品され、国際批評家連盟賞を受賞するという高評価を獲得したことにより、映画界での道が一気にひらけたのだという。

次回作もぜひとも見たいと思っているが、そう思う理由は、本作における巧みな心理描写だけでなく、このジェレミー・ソルニエ監督に、ある別の監督に通じるものを感じたから、というのもある。限られた条件に縛られるどころか、その条件の中でより適切な方法を見出しそれを生かすというソルニエ監督の手腕を見て、ふと、今や確固たる地位を築いて映画ファンからの信頼を得ている ある名監督が、かつて広く知られるきっかけとなった作品のことを思い出したのだ。これはあくまでも、自分の中に持っているイメージが元であって、必ずしも、これがほかの人の見方にも共通だとは思っていないし、この1本だけで決めつけたくはないから、思い浮かんだ監督の名前は、あえてここには書かないが。もちろん、次回作がまったく違ったイメージを纏っていたとしても、それはそれで構わないのだ。そんなわけで、この監督の次回作を、見てみたくて仕方がない。

 

 

特集上映【未体験ゾーンの映画たち 2015】の1本として上映
2015/03/31 鑑賞