「ホーリー・モーターズ」 映画と人生はこれほど近い

HOLY MOTORS

2012 フランス=ドイツ

監督・脚本・出演:レオス・カラックス

出演:ドニ・ラヴァン

   エディト・スコブ

   ミシェル・ピコリ

   カイリー・ミノーグ

   エリーズ・ロモー

   エヴァ・メンデス

 

 

“レオス・カラックス監督、13年ぶりの帰還”

 

ポスターを見て、いちばん最初に目に飛び込んでくるのは、この言葉だ。13年の間、オムニバス中の一編なども制作しているとはいえ、寡作なレオス・カラックスの長編発表は、「ポーラX」(1999)以来である。

 

アレックス三部作と呼ばれる初期作品でアレックスを演じていた、“レオス・カラックスの分身” ドニ・ラヴァンが、主人公オスカーを演じている。

 

オスカーは、まるで存在そのものが移ろうかのように、様々な人物に姿を変える。これが仕事だと言う。俳優か?しかしカメラは見当たらない。監督もいない(それらがいったい何故なのかは、少しずつ見えてくる)。

 

そうだ、これが、人生であり、映画だ。映画であり、人生だ。人生はまるで何者かを演じるかのように過ぎゆき、映画は時に人生を映す。人生と映画、現実と演技を行き来する。

 

レオス・カラックス自身が、様々な映画へ意識を向けて、それらの作品の断片をこの作品の中に閉じこめたようだが(あるシーンではゴジラのテーマが鳴り響く)、見ているこちらも、何かを脳裡に甦らせる。例えば、暗いスタジオで女性とふたり、モーションキャプチャーでの動きを演じるシーンでは、暗闇にふたりの男女という点でジャン=リュック・ゴダール監督作「たのしい知識」を思い出し(カラックスの意図とは違う連想であると思われるが)、そのように、レオス・カラックスの意図するところではない映画の一瞬までもが、記憶の表層にすら浮かび上がってこない微かなレベルのものも含め、頭の中を去来する。映画はこうして、意識的にも無意識的にもつながってゆく。

 

“死” が近くにあると感じられるシーンもまた、映画と人生の比喩という、この作品の特性を示す。死は、見えなくても常にそこにある。

 

冒頭から、その美しさに息をのんだのだ。レオス・カラックスの横顔が見える。不思議な形の鍵を回す。扉を開けると劇場。船の中。ドニ・ラヴァン=オスカーが様々な人生を演じる中、“インターミッション” までをも演じるシーンの、教会の中を練り歩きながらアコーディオンを奏でる、あの音楽、あのシーン。なんたる美しさであろうか。

 

昨年、ハリウッド作品「アベンジャーズ」に、日本の映画会社は、“日本よ、これが映画だ” というキャッチコピーをつけた。しかし、「ホーリー・モーターズ」のような作品をこそ、“これが映画だ” と呼びたい。もちろんここでは、「アベンジャーズ」のように、“大金と特殊効果を注ぎ込んだハリウッド流のエンターテインメントこそが映画だ” という意味ではない。それもひとつの形であろうが、ここでは、“映画とはまるで、この作品の中に描かれている人生のようなものだ” という意味で、そう言いたいのだ。

 

ドキュメンタリー「ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールトリュフォー」で、映像の中の、若き日のゴダールがこう語る。“映画は人生と芸術を近づける 絵画や彫刻は芸術そのものだが、映画は人生を映す” と。

 

ポスターには、“レオス・カラックス監督、13年ぶりの帰還” と書かれている。どれほどの映画ファンが待ち望んだ帰還であったろうか。

 

映画と人生は近い。映画の比喩、人生の比喩。

 

 

2013/4/10